2006.09.04

ハーフムーン

Hanngetu_1最近の夜の散歩で出逢う、お月さん。奇麗なのでカシャリ。それから、ちょっと読みかけの本のエピグラフ。小説の冒頭に誰かの引用文がその本を暗示するように置かれているもの、それが“エピグラフ”というらしい。気にいった一文に出逢ったのでそのまま載せることにする。訳は気になるが、死後50以上経過してるので、まあいいかと思う。

さまざまな感情にせよ、いまだ形さだかならぬ気分にせよ、奥深い、きわめて秘やかなぼくらの内面の状態というものはすべて、風景や季節、大気の状態や風のそよぎとじつに不可解きわまりなく絡み合っているのではないだろうか。高い馬車から君がとびおりるときのきまった動作、星なく蒸し暑い夏の夜、玄関の湿った石のにおい、噴水から君の手にほとばしる氷のような水の感触──数限りないこうした地上の出来事に、君の心の全財産は結びついている。心の昂まり、憧れ、陶酔のなにもかもが。いや、結びついているどころではない。生命の根をしっかりと張り、一体となっているのだ。だから、もし君がメスでこの地面から切り離してしまうと、それは縮み萎え、君の両手のなかで消え失せてしまうだろう。自分自身を見いだそうとするのなら内面へおりてゆく必要はないのだ。自分自身は外部に見いだすことができる。外部に。ぼくらの魂は実態をもたない虹に似て、とめがたく崩れゆく存在の絶壁のうえにかかっているのだ。ぼくらの自我をぼくらは所有しているわけではない。自我は外から吹き寄せてくる。久しくぼくらを離れていて、そして、かすかな風のそよぎにのってぼくらに戻ってくるのだ。実にそれが──ぼくらの「自我」なるもの!

ホフマンスタール、檜山哲彦訳『チャンドス卿の手紙 他十篇』岩波文庫、129ページ─130ページ、詩についての対話。

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2005.03.31

スカンポ(哀れな草)

sukannop


スカンポ(哀れな草)
ヨアヒム・リンゲルナッツ
 
土手の上でスカンポは
レールの間に生きていた
急行ごとに気をつけをし
人の旅するのを眺めていた
埃にまりれ煙を吸い
肺を患い
うらぶれた
哀れなスカンポ 弱い草
目もあり心もあり耳もある
 
汽車は去りゆく
汽車は近づく
哀れなスカンポは
哀れなスカンポは
鉄道ばかり見てすごし
鉄道ばかり見てすごし
いつしか汽船を見ることもなし
 
土手の上でスカンポは
レールの間に生きていた

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2004.12.17

夜明けは誰の葡萄の一房だ

junnpei

年会シーズンだからという訳ではないが、今日は佐久間順平さんが歌う渡のこの曲。『酒が飲みたい夜は』。佐久間順平さんといえば林亭。詳しくは幻泉館さんに語ってもらうことにして。池袋のシアターグリーンで行われていたホーボーズコンサートなんかで活躍されていた。器用な人で楽器ならなんでもこなす。特にフィドルなんかを手にすることが多い。今日はこの曲、詩は詩人の石原吉郎さん。いまさら何も付け加えることはあるまい。たっぷりとこの詩を味わっていただきたい。特に気に入ってるところはやはり「夜明けは誰の 葡萄の一房だ」というところ。どうすればこんな言葉がでてくるんだろう。やはり詩人は詩人。さあ酒でも飲むとするか。


が飲みたい夜は 酒だけではない
未来へも口をつけたいのだ
日の明け暮れ うずくまる腰や
夕暮れとともに沈む肩

血の出るほど 打たれた頬が
そこでもここでも まだ火照っているのに
うなじばかりが 真っ青な夜明けを
真っ青な夜明けを待ち望んでいる

酒が飲みたい夜は ささくれ立った指が
着物のように着た夜を剥ぐ
真夜中の大地を 掘り返す
夜明けは誰の 葡萄の一房だ

酒が飲みたい夜は 酒だけではない
未来へも口をつけたいのだ
日の明け暮れ うずくまる腰や
夕暮れとともに沈む肩

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2004.11.21

夕暮れ

yuugorenokouenn.jpg

黒田三郎さんの『夕暮れ』という詩を紹介します。
高田渡という人がこの詩に曲をつけて歌ってます。
最近では『トリビュート』というなかで
大塚まさじさんもカバーしてます。

akinoyuugure.jpg

夕暮れの町で
ボクは見る
自分の場所から はみだしてしまった
多くのひとびとを

夕暮れのビヤホールで
ひとり 一杯の
ジョッキーを まえに
斜めに 座る

その目が この世の誰とも
交わらない ところを
えらぶ そうやって たかだか
三十分か一時間

雪の降りしきる夕暮れ
ひとり パチンコ屋で
流行歌の中で
遠い昔の中と

その目は厚板ガラスの向こうの
銀の月を追いかける
そうやって たかだか
三十分か一時間

たそがれが その日の夕暮れと
折り重なるほんのひととき
そうやって たかだか
三十分か一時間

夕暮れの町で
ボクは見る
自分の場所から はみだしてしまった
多くのひとびとを

hikari.jpg

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2004.08.15

ラングストン・ヒューズの『おなじみの短い手紙』は典型的な反戦歌

この詩に高田渡というひとが勝手に曲をつけて歌っている。
なにはともあれ詩を読んでいただきたい。
その意味だけ記すと、

その手紙は短いくて、そして誰でも知っている見たことのあるおなじみの手紙だ。
その手紙は、あなたは墓にはいったほうがいいといっていて、裏にはなにもかいてなくて、ピストルもナイフも何も使わないでその手紙がぼくとあなたの命をうばってしまうといってる。
そんな手紙を昨日の朝に郵便箱の中に見つけたといってる。

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2004.07.05

門外漢のアンサンブルに想う—ライ・クーダー&キューバン・ミュージシャンズの場合

 まずはいきなり、ライのリードで入る。そしてベースとドラムがしっかりとしたリズムを刻む。イブライム・フェレールの草原を渡る伸びやかなボーカル、そして鄙びたハーモニックなコーラス。「ハーイイイヤイヤ」。その間にもマラカスが2倍にも4倍にもノリノリだ。ボーカルの間にはライのリードギターとそれを追いかけるようなコンパイ・セグンドのツインリード・ギター。次のメロディを期待してると、「すこーん・すこーん」となんて言う楽器か知らないが、レゲエのあの「スコーン」と言う音が間の抜けた感じで更に盛り上げる。間奏は消音装置をつけたコルネットかトランペットがブルージーなテイスト。リードギターの音をじっと聞いてると、途中で「スコーン・スコーン」の裏打ちドラムカンドラムに気をとられる。そうかと思うと転がるようなマラカス、またリードが音を跳ねつま弾く。なんの楽器か知らないがその間にも転がるように音は流れていく。僕のレイアウトも本文と見出しとイラストと写真のアンサンブルはこのように正しくあってくれと祈るのみだ。しかも詩はあくまで美しい。

たとえば

『私の花に何をした?』

ある木の幹に、若い娘が
喜びにあふれ自分の名前を彫った
芯まで心を動かされた木は
一輪の花を娘のために落とした

私は木、悲しく心動かされた木
おまえは私の皮に傷をつけた娘
おまえの素敵な名前をいつまでも大切にしよう
そしておまえは、私の哀れな花に何をした?

このアルバム「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」
なかでも特に気に入ったのは、
2曲目「デ・カミーノ・ア・ラ・ベレーダ(道を踏み外すな)」
と6曲目「イ・トゥ・ケ・アス・エチョ(私の花に何をした?)」
と10曲目「アモール・デ・ロカ・フベントゥッド(青春時代のいい加減な愛)」だ。

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2004.06.23

ひまわり

papa10.jpg

知っていますか
この春に
私の丘に模様のようにやって来て
呼びもしないのにやって来て
部屋に向かいそのまやかしを広げて
そしてそのあと
深く頭を垂れて死んでいった
ひまわりたちよ

バーナード・フォレスト詩集より

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2004.06.09

69

rivie2.jpg

69(作詞:金子光晴/作曲:高田渡)

あんまり 撫でまわすので
わが 恋人は
ずんべらぼうに なりはてた
その あやまちは
ボク だけじゃなく 君にもある

こんなボクから
逃げるのを忘れて
ながいをしすぎた
わが恋人よ

その場かぎりの よいことや
あてにもならない 約束を
本気にするのが いけなかった

今になっては
目鼻もわからない わが恋人よ
ボクの手垢で
黒光して

さて そうなっては すべもなく
ボクの方から
逃げねばなるまい

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2004.05.29

自分の感受性くらい

PHP研究所の「わが心の詩」のなかにこんなのがあった。最近写経ばっかりですいません。でもあらたに自分の感想を付け加えることもないか。これを読んで感動した。ということで。

元の詩 茨木のり子 「自分の感受性くらい」

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

それを読んだ作家の氷室冴子さんの文章。

二度と耳にしたくないほどの汚いことばで、人をなじったことがある。二十代の終わり頃だったろうか。そんな汚い、悪意にみちたことばが、自分の口から出たことに傷つき、その傷を他人のせいにしなければ耐えられないほど苦しくて、自分が正しいと信じたくて、際限なく他人を憎み、周囲を責めていく。かつて自分のなかにあったはずの善意や無邪気さを、ひとつひとつあげつらい、失われたのは時代のせいだと決めつける。泣きながら、そんなことばかりを口走っていたある日、いつも黙って聞き役に徹していた友人が、一冊の文庫本をさし出した。ちくま文庫『心に届く話し方』川崎洋著だった。川崎洋さんの詩のように優しいエッセイ集の最後、ほんとうに一番最後に、この詩がぽんと載っていた。なんの解説もなく。気がつくと声に出して読み、泣いていた。こんな詩があるということ。それをそっと知らせてくれる友人がいたということ。すべてに感謝したくて、涙があふれてとまらなかった。

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2004.05.24

ものもらい

今日は、
高田渡の歌で「ものもらい」という歌を
歌いながら、帰ってきた。
自転車に乗りながら。
もちろん歌詞は山之口貘だ。
落ち込んでる時はなぜか元気な歌はうけつけない。
そういう時はドリカムなんてイヤだ。
かといって、この歌は暗くもない。
暗さを、飄々と超越した、とぼけた歌だ。

家々の窓口をのぞいて
歩くたびごとに ものもらいよ
ものもらいよ ものもらい
街には たくさんの恩人が増えました
恩人ばかりをぶらさげて
狭い街には住めなくなりました
道交違反になりまして
狭い街には住めなくなりました

ある日 港の空の下の
船を ながめ ものもらいが
ものもらいが いいました
ため息をつきながら
俺はなまけもんと いいました

恩人ばかりをぶらさげて
狭い街には住めなくなりました
交通妨害になりまして
狭い街には住めなくなりました

だんだん歌ってるうちに
気持ち良くなって、
だんだん声も大きくなって、
自分がフォーク歌手か何かのように思えてきて、
ついには周りが気にならなくなって、
更に声が大きくなって、
しまいには気分がすっかり良くなり、
家に付く頃には
ついには元気になってしまった。
な〜んだ、もう家か。
ちぇ。

吾が心の「ものもらい」自己完結編

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