2007.08.16
2007.08.12
2007.08.11
2007.08.10
内モンゴル自治区の市場

右側のお姉さんはモンゴル放送局のアナウンサー。我々を取材するために一緒について回っている。実はお姉さんではなくりっぱな奥様。モンゴル人ではなく漢民族らしい。次の日、モンゴル自治区のTVに、我々の植林活動がしっかりとオンエアーされたらしい。赤い袋に入ったハミウリを東京まで持ち帰って食べたら、おいしかった

いかにも、「モンゴル人でございます」といったルックス。笑顔でカメラに収まってくれた

今時、竿秤で量り売りをしている。分銅が懐かしい雰囲気を醸し出している

ラーメンみたいなものを食べていたおばさん。カメラを向けるとアハハと笑って照れている。我々にもどうぞと同じ食べものを勧めるてくれる。人なっつこいおばさんだった
2007.08.08
遠山先生
2007.08.06
沙漠から小学校へ

大きなサンドバギーに乗り植林された沙漠を見学。これは1年ほどたったポプラ

一緒に木を植えた子供達の小学校を訪問する。おみやげというか一人一人に文房具やサッカーボールなどを手渡す。子供達はしっかりと、目をみてシェシェという。なんて澄んだ目をしているのだろう。文房具を与えるほど彼らは困ってないように見えた。それなのに100円ショップで用意したのでよかったのか? 中学までは義務教育で、高校は半数以上が高校に進学、そして大学にもということらしい。同行した全青連の偉い人が子供達に、しっかり勉強して国のために貢献する大人になって! と激励いていた。それに答えて、子供達は大きなこえで返事をしていた。ナショナリズム? なんてことよりもただ単純に向学心に燃えている、そんな子供たちだと思った。日本ではいまこんな子供の姿はない。日本の子供達の学力は下がる一方なのでは? なんて羨ましく思った。

トイレを借りたら、びっくり。ぼっとん便所もいいところ。小も大もおなじ、しかもしきりがない。臭いが強烈なんていうもんじゃない。鼻をつまみようやく用をたす。こんなところで子供達はいつも用を足しているのか? ところがパソコンの普及率がすごく、授業もちゃんとあるみたいだ。なんかアンバランスだな〜。子供達と記念撮影し、小学校を後にする。柳の綿がふわふわ空に舞っているなかをお別れだ。縁があったらまた会おう。
2007.08.05
沙漠に植林
沙漠に植林というとかっこ良く聞こえるが、実はシーズンオフのため真似ごとをする、つまりセレモニーである。それでも地元のボランティアの方や子供達、それに父兄の方達が必死になって準備をしてくださった。申し訳ないな〜なんて思いながら、セレモニーの木(今回は杉だった)を一緒に植える。砂を80cmくらいスコップで掘って植え、砂をかけ水をあげる。全部で20本くらいも植えたろうか。これで終わりである。それでも和気あいあい、地元の方達や子供達と、言葉は通じないものの、歓声をあげながら作業を終えたのであった。あとは地元の方達が、柳やポプラを定期的に植えて、水をやって管理してくれるそうだ。情けな〜。これでいいのだろうか? なんて思うのであった。その後、大きなサンドバギーに乗り植林された様子を見学する。
2007.07.30
いよいよ砂漠へ
約12時間寝台列車に揺られ、朝早く内蒙古自治区の首都、包頭の一つ手前・包頭東駅に着く。この辺りは滅多に雨は降らないらしいのだが、その恵みの雨と一緒にやって来た。地方とはいえ、駅前はこんな具合に賑わっている。たまには高級車も通行している。
駅から車で大黄河を渡り約1時間半でホテルにテェックインする。朝食を急いで済ませ、目的の砂漠への植林へと向かう。全青連の緑化基地にパネル等が展示してあって、見学する。小渕前首相の娘さんの衆議院議員・小渕優子さんや公明党の太田代表なんかがパネルに映っている。へ〜、こんな人もこんな辺鄙なところまで来たんだー、と感心する。ということで地元の小学生や父兄、ボランティアの人と木を植えることになる。
2007.07.22
北京でのある一日
午前中は、丁民先生を囲んでの座談会があり、「日中国交正常化と周恩来の思い出」といったテーマで、お話を伺った。難しいことは分からないが、1972年の正常化以前にも日中国交正常化の動きがあって、吉田首相の頃からの話や前年・1971年の第2のニクソンショックの事、また関連する中国と日本の事情等々、簡単に時系列的にお話しくださった。アメリカのベトナムの泥沼から抜け出したかったという事情、またはソ連に対向するための日本との関係の修復、といった事情が日中正常化の背景にあった事など。まとめは周恩来首相の性格、生き方および中国の外交姿勢などにもお話が及んだ。周恩来外交の特徴は、誠実な人柄をベースに友人をつくる外交を展開したこと。民間の往来を歓迎しwin-win、言わばソフトパワーという懐の深い外交を展開された。そして彼の信念としては「イデオロギーは強制できない」という考え方がベースにあったということをお話くださった。その後2・3質問が飛び交い、昼食となった。植林のための壮行会といった感じで、全青連の偉い方々と会食した。その後、天安門広場や故宮を観光する。

天安門広場は広い。観光客もたくさん。
2007.07.21
2007.07.19
2007.07.18
2007.07.17
2006.12.03
雉打ち連発
今週末、あんまり天気がいいのでまた山へ行って来た。今回は友達を誘ったのだが、ふられたので一人さびしく行ってきた。山へ登るというよりは、山や里を歩くといった感じ。芦ケ久保の駅から丸山、また芦ケ久保と行ったコースで歩いて来た。紅葉も終わり、落葉がはじまり、広葉樹の落葉が絨毯みたいに敷き詰められた道を歩き、ふと空を見上げると裸にされた樹木の枝が青空に冬の命の静脈みたいに、模様を広げている。また前回につづいて雉打ちをしてしまった。近くをリスかイタチかそんな小動物がすばやく逃げていったり、見たこともない小鳥や猛禽類が木々の枝えだの間を飛び廻る。たとえば、いつもいる仲間の間に見知らぬ入が入って来て興味深々といった感じで、あんまり見たことのない鳥達の姿や鳴き声に興味深々だ。遠くの空でパラグライダーに興じてる人がいたり、鬱蒼とした杉林を抜けて民家が見えてホッとしたり…、そんな山歩きだ。






2006.11.28
2006.08.19
栗駒山へ登る
キャンプ2日目、ウグイスの声で目覚め、テントの外へ出てみる。生憎の霧で場内がかすんでいる。食事をしている頃、急に霧が晴れ出した。
とこんな感じ。今日一日何をしようか? もしかして栗駒山の山頂まで登山できるかもしれない。調べたら、片道1時間半、往復3時間で行って来れるらしい。息子は、昨年暮れの浅間隠山に続いて2回目の登山ができると大喜び。渋るカミさんを説得して、1627メートルに挑戦してみることになった。午前11時頃、ベースの鏡平まで車で行き、いよいよ登り始める。遭難するかもしれないので、救助用に携帯電話を持っていくことにする。と初心者は考えた。前日とはうって変わってお天気はカンカン照り。腕が日に焼けてじりじり痛い。
最初はこんな感じで、コンクリートで固められた道をゆっくりと登っていく。なぜかウグイスが盛んに鳴いている。春には里で鳴いてたのが、夏はこんなところに来て鳴いてるんだ〜 なるほど、なんてお勉強になったり、癒されたり。そうこうしてるうちにはるかかなたに山頂が見えて来た。
しかし、山頂ははるか彼方。あんなところまで登るのか〜 と気が遠くなる。ペットボトルのお茶を一口、大事に飲みながらまた出来るだけ先を見ないで地道に登ることにする。上から降りてくる人に「こんにちは」とお互い声を掛け合い元気づける。また遅いグループを「おさきに〜」なんて声をかけながら、たまに後ろを振り向くと、こんな感じ。
もう3分の2くらい登ったかな? なんて思う頃、雪渓が山腹に見えてくる。そして道端にはリンドウが可愛らしく清楚に山の風にふかれ咲いている。誠に絵になる風景だ。登って良かった! と思う。
そして山頂ももうすぐそこに見えている。体力と気力のすべてをかけて山頂へGO!(大げさな〜)。そしてやっとついた〜1627メートル。心臓はノドからとびでそうだ。後半はきついきつい。
山頂からは360度大パノラマ。名前も知らない山々が連なっている。山腹にはところどころ沼が点在している。雲の絨毯が見え、まさに雲上の天国だ。そしてなぜか無数の赤とんぼ。こんな高いところを飛び回るのか。もう山は確実に秋なんだな。空を見上げると確かに秋色をしている。高山植物達ももう終わりの季節だ。夏の終わりに別れを告げ、下山しなくてはいけない。名残惜しいがしかたがない。下りは早いけど、足に負担がかかる。スニーカーみたいな靴なので足の皮がむけそう。それにももやふくらはぎがぱんぱん。しばらくは足がカクカクする。鏡平のレストハウスで遅い食事をしながら、登山を振り返る。そのときに食べたカレーうどんとビールは美味しかったな〜。
2006.08.17
旅から帰って来た
旅から帰ってきました〜。というか、実家へ法事で帰っただけなのですが、亡くなった親父の13回忌、祖母の23回忌、母親の27回忌と重なって、兄弟全員集合! 休みが世間と一緒にしかとれなくて、日本全国大移動の時期にしかたなく、それにあわせて渋滞のなかを行ったり来たり。東京の大停電のことなんか、全然知りませんでした。今回、それだけでは面白くないので恒例のキャンプと組み合わせてみました。今回は宮城県の栗駒オートキャンプ場。場内に露天風呂なんかもあったり、まあまあ。チェックインしたその日、途中の山道で集中豪雨。山道が川へと変身。下界は晴れているのに、山の天気はクルクル変わる。どうなるかと思いきや、その後お天気は持ち直し、高速の渋滞に巻き込まれながらも初日の予定をクリアました。
話は変わりますが、今悩んでいること。それは、どんなかたちでもよいから個展を開きたいということ。でも、このblogで発表すれば、それでいいんじゃないか? なんて考えてしまう。でも、やっぱりね…blogと同じ内容というわけにはいかない。
2006.01.28
柳ケ瀬ブルース
滅多にしない出張である。ある企業の展示ブースのデザインをしたので、現場監督である。しかも遊びでも、富士山より西にいく事は稀である。岐阜の岐阜市は新幹線を使うと東京から3時間半で行ける。朝、いつもより少し早く起きてちゃんと朝飯を食べて行くが、同行者が気を利かせて深川飯のお弁当を買って来てしまった。断るのは悪いので、喜んで食べることにする。11時頃JR岐阜駅に着いて、そこから展示会場へいくと周辺にはあまり食事するところがないということなので、駅で食べる事にする。これでもう三食目である。太るはずである。まあ現場は現場、想定どおりうまくいくはずがないというか、あれやこれやトラブル続出。いい経験かな? なんて無理矢理思うようにしてその日が終わって、ぐったりして旅館へ、とりあえず肩の荷が降りる。
そして、今度は四度目の食事。同行者が旅館の食事ではつまらないというので、外に食べにいく。どこにどんなものがあるのかさっぱりわからないので、タクシーを拾って、美味しい居酒屋なんかを教えてもらう。その場所が「柳ケ瀬」にあるという。タクシーの運転手さんにいろいろ地元のお話を伺っていると、「柳ケ瀬」という地名が頻繁に出てくる。そこで、「もしかしてその『柳ケ瀬』というのは、美川憲一の『柳ヶ瀬ブルース』の『柳ケ瀬』ですか〜」と思わず聞いてしまった。歌が流行ったころは、ものすごく賑わっていたが、最近はさびれてしまった、ということだった。また、最初は美川憲一ではなく地元の歌手が歌う予定になってらしいというのだ。ふ〜ん、そうかなんて関心しながらその居酒屋に連れて行かれたのだった。まあまあ、お魚が美味しくて雰囲気のあるお店だった。ウーロン杯を飲みながら、『柳ケ瀬ブルース』のメロディーと歌詞が頭を占領して岐阜の夜は更けてゆくのだった。
そのほか、観光らしき観光はしないまま、あわただしく東京へ帰ってきた。早速、「岐阜」や『柳ケ瀬ブルース』のことをネットで調べてみる。ところが、タクシーの中で聞いた話と少し違うことが書かれていた。『柳ケ瀬ブルース』を作詞・作曲したのは宇佐英雄さんという人で、伊豆長岡温泉で芸能活動をしていた、そこへ訪れた沖縄舞踊団の踊り子に恋をし、そのときの出逢いと別れを『長岡ブルース』というタイトルで本人が歌っていた、それを美川憲一が『柳ケ瀬ブルース』に題名を変えカバーした、とあった。
寂れているといえど夜の柳ケ瀬は雰囲気があった。旅館から見える長良川の夜景や、泊まった旅館「十八楼」の周辺の家々の歴史あるたたずまいも雰囲気あったし、「ビジネスにはどうかと思うけど住むにはいいところですよ」といいつつ『柳ケ瀬ブルース』を鼻歌で歌う運ちゃんが思い出された。
2005.11.18
ふーらり、ふらふら、ポタリングシリーズvol.5 中野のゲルニカ
普通、落書きは上手くない。上手くないところが、落書きの魅力なのだが、これは落書きを超えている。URLも書いてあったが、記録するのを忘れてしまった。
2005.11.17
ふーらり、ふらふら、ポタリングシリーズvol.4 かわいい嫌われ者
このひとは嫌われ者だが、かわいい。角帽をかぶっているところを観ると、汚いが頭がいいらしい。角が生えているんだけど、帽子もかぶっている。こんなかわいいものなら食べてしまいたい。
2005.11.15
2005.11.13
「自由の女神」と「結(ゆい)」
『自由の女神』と『結』はどちらが新しいのだろうか。
青森県大畑村に『木野部海岸』というところがある。大畑村には昔、岩が適当に点在する美しい砂浜があった。かつて子供たちはそこで遊び、捕れる魚もその浜のおかげで潤い、静かで豊かな漁村の暮らしがそこにはあった。高度経済成長時代、イカ漁がその村の覇権を握った。イカ漁が暮らしをもっと良くしてくれるのではないかと村人たちは幻想を抱いた。そしてその覇権は、漁港をコンクリートで固め、大きな船が出入りできるように、深く掘ったり、港を整備した。それには飽き足らず、『木野部海岸』にコンクリートの構造物を造ったのであった。皮肉にも、港を新しくしはじめた頃から、イカ漁は振るはなくなり、船はイカを求め、遠くは外国まで遠征するようになった。そしていつのまにか村はさびれていた。そして村人たちは失ったものの大きさに気づいた。たった150メートルの海岸ではあるが、国の助成で造った建造物を壊し、元の美しい海岸に戻そうという運動が起こった。法律的な問題も乗り越えて、村人たちはたった150メートルであるが、かつての美しい『木野部海岸』を取り戻そう、と試みはじめたのであった。
時をおなじくして、ユングの集合無意識ではないが高度経済成長以来、大量生産、大量消費、そしてそのために製品のサイクルをわざと短くして物を売る、そんな社会に限界を感じ、新しい試みをはじめている人たちが沢山出て来た。
古い城よりりっぱな棚田の石組みの山口県、防府市。田んぼと林業を営んでいる人が紹介されていた。彼はかつて警察官をし、高度経済成長時代、一儲けしようとその警察官をやめ、レストラン経営をはじめたがまもなく倒産。そのときに、実家が持っていた田んぼや山林が荒れ果てているのに、気づき山や農作業の生活に入っていった。山に入って、木の枝や下草を刈るつらい毎日。そこで彼は考えた。飼っている牛6頭をその山林に放してみるとどうなるだろうか。すると牛は野山を駆け回り、下草をほとんど食べ尽くした。そして牛が落とした糞は山や農地を肥やしていった。牛そのもは、急な山などを駆け回るので、丈夫になり飼料など必要としなくても、長生きをし、丈夫な子供を沢山産む。しかも食べ尽くした下草の跡には毒性の強い「しきみ」が残る。そのしきみは仏前に供える花として出荷して20万の儲けになるという。自然との共生を試み、成功した例だ。その他、アイガモ農法とか、これに似たような試みが今、トレンドなのだ。
そして、自分が生まれた町の一つ山を越えた村、秋田県、上小阿仁村の話。マタギの里として知られる人口3千ちょっとの小さい、小さい過疎の村で、昔からの『結』という部落の共同体みたいな組織、それをもっと強固にして厳しい現実を乗り越え越えようとしてる人々が紹介されていた。村自体は、いくつかの町と合併の話があったらしいが、それを拒否したというのだ、番組は、そのときの心境などを村長さんにインタビューした。村長さんは語る。「村には、顔や名前が知らない人は一人としていない」それが合併したとなると「顔も名前も知らない人がたくさんできてしまう」。確かにそれは小さな、小さな過疎の村の裏側を観た最高の長所であり、そこに村のアイデンティテー、誇りを感じているのだ。かつて村にには秋田杉を加工する製材所が10数カ所あったという。外国から安い建材がどんどん輸入され、樹齢100年を超える秋田杉ではあるが、需要がめっきり少なくなり、今では製材所も3カ所しかなくなったという。そんな厳しい現実を村人たちは昔からある『結』という共同組織の仲間意識を更に強固にして乗り越えようと云うのだ。現実には、その100年以上も育っている秋田杉の宝の山を捨てないで、助け合って現実を乗り越え、守って行こうとする新しい運動なのだった。自然は財産なんだというマタギの伝統的な自然との共生を踏まえた考え方なのであった。そういう考えは一見、現代人が一時、夢見ていた「自由」の獲得とは逆行しているようにみえるが、実はそのような新しい潮流が世界的に巻き起こっているのだと評論家の内橋克人さんは云う。
以上、昨日やったNHKのETV特集「長ぐつの旅・菅原文太(時代に逆らう反骨の男たちを訪ねる3千キロの旅)」をまとめただけのこと。とても興味深い番組だったと思う。それに偶然総合でやっていた番組「ユリばあちゃんの岬」で、ユリばあちゃんが、知床岬の突端に座り、オホーツクの海を観ながら「ここには鹿が新しい命を育む姿や豊かな海や海岸の自然、恵み、なんでもある。だから他になにもいらない。友達だっていらない」といった言葉が重なりあってしょうがない。
「自由の女神」と「結(ゆい)」。この二つの言葉が、唐突ではあるが僕の頭の中にイメージとして浮き上がって来たのだった。
2005.08.21
沈するやつもいる

いよいよ本番、湖に漕ぎだす
何事にも好奇心おう盛な息子君、それはすごくいいことなんだけど、むこうみずというか身の程知らずという部分もある。過去に苦労した事があるのだ。ブランコ、なわとび、水泳、ローラースケート、卓球。一緒にやるのだが、見ていられない。それでああしろ、こうしろと口を挟んだり、手取り足取りいろいろやるのだが、そうすればするほど体が固くなってどうしようもなくなる。そのうち教える方が匙をなげてしまうのだった。
なんとか船(カヤック)は湖に漕ぎだした。ところがやはりである。右を漕ぐと右に一回り、左に漕ぐと左に一回り、他の生徒さんが順調にスイスイ漕いで目的のブイのところへ集まっているのに息子君、まだ岸の近くでクルクルまわっている。あげくには岸に戻って来て動けなくなった。仕方ないので、岸からおやじが押してやる。岸ではギャラリーがクスクス笑っている。こちらは顔が引きつって、照れ笑いなんか浮かべるのがせいいっぱい。なんとかならないか、岸から「あんまり力一杯漕ぐんじゃない」とか「もっと力を抜け」とか声をかけてやる。そのかけ声が恥ずかしい。でもしかたない。そんなこんなでも、どうやら悪戦苦闘しながらようやく少し前に進むようになった。先生も心配で付きっきりになる。すると必然、他の生徒さんに教える事ができなくなる。とうとう先生も匙を投げたか、息子君、先生に見放されてしまった。おそらく胸の内、穏やかでないだろうなと思いながら、カミさんと二人、やきもきしながら黙って様子を見るしかない。
「あーあ、やっぱりだめだったね」なんてカミさんと二人で眺めている。いつも息子君、みんなと一緒に行動をとれない。遅れている。それでもぐいぐいスピードに乗って進む。だけどクルッ。「うちの息子だけ」なんて思って見ていると誰か沈しているやつがいるではないか、やった、やった、受講してる生徒さんのなかで唯一大人のあのおじさんが沈している。他人の不幸を笑ってしまった。いけない。湖は浅いらしい。胸の辺りまでしか深くない模様だ。
そうこうしてるうちに、向こう岸ちかくまで行って、小さくしか見えなくなった。何をやってるのだろうと、目を凝らしてると、まだくるくる回転してるではないか、そしてそのうち向こう岸の葦のなかに隠れて見えなくなってしまった。「おそらく一人でどうしようもなくなって、パニックに陥っているか、泣きべそをかいてふてくされているかどちらからだろう」とカミさんと二人で話していた。「これから先、社会に出て行ったら息子君、どうなるんだろう」「きっとやっていけないな」なんて二人で暗く落ち込んでそんなことを話していたのだった。
そうやって、時間になりようやく一行が帰ってきた。息子君も時々回転しながらもやっとついてくるではないか。そしてよくみると、船(カヤック)の舳先に何か乗っている。ニジマスの死骸がである。「なに乗せてんだ〜」と岸から声をかけると先生が、「向こう岸でニジマスがいっぱい死んでいるんですよ、どうやらそれをみんなに見せたかったらしいですよ」。岸から見ていて、泣きべそをかいてどうしようもなくなってるというように見えたのは、実は死んだニジマスを船の上の乗せるために悪戦苦闘してる様子だったらしいのだ。だから、泣くなんてとんでもない、実はけっこう本人楽しんでいたのだった。先生も「変わったお子さんですね」とは云わなかったけど、そんなニュアンスでクスッと最後に笑ったのだった。当の息子君は「あ〜楽しかった」とご機嫌であった。
情けないのは見ている親なのであった。何が情けないかというと、そんな風にしか見れない親でことが情けない。それに比して息子のなんといきいきしてる事か、あんまりうまいとはいえないけど、それなりに初挑戦して、楽しみながら、そして苦しみながら、しかも悪戦苦闘しながらなんとかやっているのだった。「何が日常からの脱出だ」なんて思った。日常の延長じゃないか。でもそれに気づくから旅や冒険はやはり、非日常なのだろう。

カヤック初挑戦だ〜
漕ぐ

息子君、カヤックに初挑戦

キッズカヤック教室の先生と生徒の面々
二泊三日、一日目カミさんの仕事にあわせて、午後からでかけたのでキャンプ場についた時は5時を回っていた。途中、これも昨年何回も利用して勝手が分かってるA-coopに寄って地元で取れた野菜や飲み物、食料などを調達する。天気は曇りで気温は都会よりも10度くらいは低い。てきぱきと要領よく、タープやテントを張る。息子も今回は大活躍する。やり方は毎年やっているので、あまり口で云わなくてもスムースに事が運んでいく。あとはゆっくり食事の用意をして、一杯飲みながら簡単なアウトドア料理に舌鼓をうつ。本当は星降る空でのキャンプを思い描いていたのだが、それは天気がイマイチでかなわない。それでというわけではないが、焚き火の器具と家から持って来たいらない木片で焚き火を楽しむ。ちょろちょろと揺れる炎を見つめながら、夜は更けていく。
夜中に一時、雨がふった模様。二日目は思いっきり遊ぼうと云う事になっていて、キャンプ場に隣接するバラギ湖でルアーフィッシングに興じる。あーでもないこーでもないと一所懸命に息子に教えるんだけど、さっぱり釣れない。息子はすぐに飽きてしまって、かみさんと湖畔の散歩にでかけてしまった。その間、おやじはむなしいキャスティングを延々と続ける。午後になって息子が、キッズのカヤック教室があるのでそれに参加したいと言い出した。普段おとなしくて、そんな事をあまり云う子ではないのだが、よほど興味があるらしい。と、おやじも本当は一緒にやりたかったのだが、午前中の釣りにかなりの出費をしてしまった思いがあったので、こんどはぐっとこらえて、湖畔から様子を見る事にする。そしてその間、湖畔の花々などを携帯のカメラに収めるべく、散歩でもしようと思ったのであった。
参加者は大人1名を入れ8名。丘でヘルメットをかぶったり、ライフジャケットをつけたり、準備体操がはじまった。その後、どうするんだろうとみていたら、パドル(ブレードが右と左についている)の握り方からこぎ方まで、丁寧に先生が解説している。そしてそれをまねて生徒さんが右左と漕ぐまねをしている。そして乗り方の実地までとりあえず丘でやるのであった。見ている限り息子君もまあ、なんとかやっているので、一安心。というのは実は息子君、本人が云うほど客観的に見て運動が得意でない。なので実は内心すごく不安であったのだ。
丘での練習が終わっていよいよ、湖に出る事になる。
| Permalin


































































