2008.05.06
探偵小説と現実の世界がパラレルに進行するうちに、両者がクロスして何が虚なのか実なのか分からなくなる。複雑に絡まった物語を作者はどうまとめようとするのだろうか? 最後はここにその理由があったのかというような素晴らしいまとめかただった。世界にはいろんな考え方があり、その一つ一つに自分を会わせることは不可能であるということ。いったん世界のささやきに自分のチャンネルを合わせると常にそれを続けないと不安になってしまうこと。そんな不安とすべての人は抱えているんだということ。そして自分もまたその例外ではないということを感じた。
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2008.04.06
冒頭の竜巻の譬えみたいに、行く手の形あるものをなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、叩き潰すような「すみれ」の初恋ではあったけれど、「ぼく」にとっては、春先のモルダウのように、川面に渡るゆるやかな風、若い樹木の放つのびのびとした匂いそのものような「すみれ」。誰よりも理解し合っているけれど、埋めようと思ってもどうしても埋めるこの出来ない溝、一つになれない若い命たち。手に入れようと思っても、手に入れないかもしれないものを求めて、「すみれ」は「ミュウ」のあちら側をのぞきに行く。それは確かに竜巻のような恋だ。そして「すみれ」は帰って来ない。
あるときの主人公は、「ぼく」であり「すみれ」であり、「ミュウ」だ。それぞれの主観が全体の客観をつくっている。そしてものを書くとについて、それは思考するために書くのであって、書きながら思考し、理解する行為だと小説家志望の「すみれ」に言わせる。「すみれ」が書けなくなるということは、思考できなくなる、思考をやめること。それが分かっていながら、「ミュウ」への恋にのめり込んでいく。そこには思考することとはまた違った理解、世界への認識の仕方があるかもしれないと言ってるのだろうか? にもかかわらず「すみれ」はこちら側からあちら側へ行っていまったのだ。そんな「すみれ」を一番理解していた「ぼく」。でもぼくは「すみれ」と一つになれない。なんと哀しい季節が人生にはあるのだろう。
『人にはそれぞれ、ある特別な年代にしか手にすることのできないとくべつなものごとがある。それはささやかな炎のようなものだ。注意深く幸運な人はそれを大事に保ち、大きく育て、松明としてかざして生きていくことができる。でもひとたび失われてしまえば、その炎はもう永遠に取り戻せない。ぼくが失ったのはすみれだけではなかった。彼女といっしょに、ぼくはその貴重な炎までも見失ってしまったのだ。』永遠に取り戻せないという思い、悲しみは無くしたからこそ感じるのである。自分には、はたしてそんな大事なものを手にし失ってしまったと、同じくらい感じたことがあったろうか? 「すみれ」のような友達が、僕にとっての特別な年代にもしいたならば、僕の人生ももっと切なく、そして美しくなっていただろう、春のモルダウみたいに。僕はそれが哀しい。
結局、すみれは僕のもとに戻ってきたのか? それとも夢なのか? 気になる結末であった。今、僕は良育の「芭蕉布」を聴きながらこれを書いている。
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2008.01.07
かなり、大分、と言えるくらい悲しいお話を読みたかった。そしてとっぷりとその悲しみにひたりたかった。それで読んでみたのが石田衣良だった。ところが予想に反して全然悲しくなかった。全く悲しくなかったという訳ではないが、どちらかいえば未来のあるお話で、明るく爽やかでさえあった。それはそれで、思わぬ収穫ではあったのだが、やはり悲しいお話が読みたい。本屋でたまたま、「20年前に生まれた本」という企画の棚があって、そこに真新しい手あかの着かないピカピカのカバーの『ダンス・ダンス・ダンス』が上下そろって飾ってあったのを見た。あっ、これが読みたいと思って、買わないで、近くの図書館にあるのを借りて読んでみた。まだ途中だけど、イキナリもうハルキのセカイにひきずりこまれてしまったのだ。現実の世界と心理的現実の世界というのか、その間を行ったり来たりしながら、ミステリーのように主人公の今ある問題を少しずつ解き明かしていく。暗喩というのだろうか、世界や社会に対する感じ方を、抽象的に暗示しながら、ストーリーとしての面白さを追求しつつそれを文章にしていく。果たしてそんなことが人間に出来るのだろうか? 自分が文章を書くときのことを考えればその素晴らしさが分かる。1988年の1年前には『ノルウェイの森』、その前には『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』が出ている。悲しいということでは『ノルウェイの森』には勝てないけれど、不思議の国のアリスの穴の世界と現実を行ったり来たりという『境の終わり』のあの手法によって、お話はどんどん進んでいく。奥さんに逃げられてしまった主人公は自分の「ある傾向」がそれを招き、周りを不幸にしていると、何となく気付いている。それを探す旅に出ているのだろう。ベースにはそんな悲しみが漂っている。まだ途中だけれど、主人公はまだ覚醒途中であり、その時点での大量生産・大量消費の社会に対する批判、そしてその時代を今行きている自分といったことが、物語の中で会話や暗喩によって、気付くことがある。20年前、それはどんな時代だったのだろう。どんな歌が流行っていたのだろう。僕にとっては、思い出そうとしてもなかなか思い出せない。前の年に出たノルウェイの森』を読んだときは覚えている。あのときは衝撃的だった。しばらくあの悲しみから抜け出せなくなるくらい悲しかったのを覚えている。数年前の自分に重ね合わせて。その後、『ねじ巻き鳥』『カフカ』『世界の終わり』『短編集『アフターダーク』と順不同で読んできて、今『ダンス・ダンス・ダンス』を読んでいる。かなり悲しいといえるのかいえないのかまだ分からなけど、いまは「ドルフィンホテル」と「いるかホテル」を行ったり来たりしている。その後どんな風に展開していくのだろか。
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2008.01.06
掲示板に書かれていた『わたしと“ローマの休日”しませんか』というメッセージをきっかけに二人はオンラインの交流を深めていった。主人公は、そうやって約一ヶ月かかってオフラインのデートにこぎつけた。その日まで仕事もキッチリこなし、ヴェスパに乗ってグレゴリーペック風のいでたちでキメて出かけた。ところが銀座三越ライオン前の待ち合わせ場所に来たのは、別人だった。今まで交流してきた人物は72歳のオバアちゃんで、代わりにきたのはその孫の女性。驚いたけれども主人公はその孫娘をヴェスパに乗せ、そのオバアちゃんのいる老人ホームまで会いにいく。誠意をもって会話をして帰ってくる。そしてパソコンにはメールが2通来ていた。1通はオバアちゃんから、そしてもう一通は孫娘から。それには『わたしと“プリティーウーマン”しませんか』とあった。石田衣良の短編集『スローグッドバイ』のなかの『ローマンホリディ』というお話だ。なななか泣かせるではないか。オンラインの会話だけならなんとかできるけど、こんな展開になってここまでは自分にはできないな。きっと代わりにきたその女性にすぐにデートを申し込むかもしれない。というかオフラインでそんなデートなんか申し込む勇気なんか全然ないんだけど。とフィクションだけにちょっと甘口だけど爽やかな読み応えがあった。作者があとがきに書いた通りの読後感を持ったのであった。その10編は、ひとつひとつが違った味を持ったルックチョコレートを神経衰弱風に選んで、味わってるような感じであった。松田幸行正さんの青空に浮かぶ女性の写真を使った装丁が透明感があってかっこいい。下方の空白があるのに写真の上方に持ってきたタイトル案は大いに参考になった。
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2008.01.05
石田衣良の短編集『スローグッドバイ』にいくつか良いお話しがあった。この本全体としては、若い世代の恋愛集といった感じで、セックス抜きには恋愛は考えなれない現代の若者の日常や仕事、出会い等を描いている。かといってセックスが全てではない彼ら。たとえば『真珠のコップ』。渋谷のラブホテルで知り合ったコールガール・リカコと隔週ごとに付き合ううちに主人公のヒロトは本当に好きになっていく。ついに最後の指名をして、普通のデートがしたいと申し込むのだ。その場面はなぜか泣ける。恋愛からセックスという順番が普通ならその反対、セックスから恋愛だってあり得る、面白い。セックスをさらっと書いて嫌みがなくそして軽い。今の若者はこんな風な毎日を送ってるのか。いいな〜。そういう自分は老人なんだろうか?
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2007.07.25
リンク: Amazon.co.jp: さよなら、ビビアン: 本: アニー・ベイビー,泉 京鹿.
中国製というと何科と粗悪なイメージがつきまとう。来年のオリンピックもそうなんだけど、経済発展が著しい今の中国は、しゃかりきになって前に進もうとしている。それがかなり焦っているようにみえる。なにに焦っているのだろうか? そんななかで足下をおろそかにしている部分が見える。それが日本で報道されているような事なんだと思う。
しかし、実際にその国を訪れてみると印象は少し違う。例えばトイレ、これはたまらない。北京の空港や公園の公共のトイレは一応水洗なのだが臭いがきつい。こんなのはましなほうで、地方の公園の学校のトイレはすごい。ボットンでしきりもドアもなかったり、とにかくすごい。北京の高層ビルとトイレ、なにかアンバランスだ。地方小学校のボットン便所とインターネット、これもアンバランス。この国では、小学校でもインターネットを教えている。携帯やネットは常識といっていいくらい普及しているらしい。遅れている部分と進んでる部分が奇妙に混在してる国、そんな印象だ。
そして『さよならビビアン』、この本を読むと更に中国に対するイメージは大きく変わるだろう。1998、99年にインターネットの文芸サイトに掲載されたもので、あちこちのサイトに転載されて話題になったネット小説である。今、中国大陸で最も若者に人気のある売れっ子であるアニー・ベイビーの作だ。とらえどころのない広大な中国大陸同様、ネットの大海原のなかで知り合う若者達、そういったキーボードから生まれる言葉を頼りに生まれる感性、いわばバーチャルな現実。そして「南下」「北漂」といったライフスタイルに見られる現実が交錯する。若者のびビビットな恋愛と孤独、考え方、感性のスクランブル。中国の最も新しさが味わえる作品だと思う。
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2007.05.25
かなり前だったか、好きだった女性が
『星の王子様』が大好きだと聞いたので、
読んでみようと思って読んでみたのが最初だった。
その時に、「どうっだった?」と聞かれて、
「面白かった」と言ったら、
「簡単にそんな風にいわないでよ!」
と言われた。それで、だいぶ傷ついたことを覚えている。
おそらくその人は、かなりな思い入れがあったのだろう。
それから、たしかもう一回読み直したような気がする。
あれから数十年、テグジュペリの著作権が切れて、
最近、何人かの人の訳で何冊か出版されてブームになっている。
今回は、池澤夏樹の訳で読んでみた。
今回で多分3回目? かな?
感想は?
今回の感想は?
なんか深いようで、なにかのことをいってるような?
でもほんとのところなにいってんだろう?
またも読む側の頭の良し悪し、
性格のより悪し、
が感想を言うことによって
それが如実にバレてしまうんだよな〜
てな感じかな。
偶然なんの符号か、職場の後ろに席に座ってる
先輩に、「○○さんはテグジュペリ好きですか?」
なんていわれ、「そうゆうのが好きなのかと思って」
なんて言われた。
そんなこんなこともあって、
急にテグジュペリが読みたくなって、
HPなんか検索したら、松岡正剛さんかなんかの
『千夜千冊』の『夜間飛行』の書評読んでみたのだが、
それがまた面白い。
その他、『人間の土地』が素晴らしい本だのなんだの、
いろんなサイトがいいことを言っているではないか。
あ〜これはもう、読むしかない。
でも悩むのは、『夜間飛行』と『人間の土地』の
どっちを先に読むかだ!
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2007.04.08
訳者のあとがきに、朝起きたら腕が3本になっていた人間の物語を書くとしたら、中略、つまり腕が1本増えたために主人公がとる行為と、その行為が招聘するであろう別の行為との相関性の中に、腕が増えた理由理由も(自発的に)暗示されていくべきだというのが、チャンドラーの考え方なのである」とあった。
この1週間、朝起きて出勤するまでのわずかな時間、電車の行き帰り、お昼休みのわずかな時間、帰宅してから寝るまでの一瞬。仕事をしている以外のほとんどの時間をこの本を読んで過ごした。一体犯人は誰? 事件はどうなっていくのがだろう? 全くストレスのたまるハードボイルド探偵小説である。主人公フリップ・マーロウは、様々な登場時分物に皮肉な憎まれ口をたっぷりと口にはするが必要最低限の話の筋道しか言わないように思う。なのでそのことついて、マーロウがどう思ったかという説明もない。ただ事実を突き放して客観的に進める。なのでそこには多くの疑問が残る。その疑問を読者は解決しようと先へ読み進めるのだ、なかなか核心部分に触れないもどかしさがある。ようやっと後半の後半になってその理由が納得できるといったように書かれている。主人公フリップ・マーロウについても自ら口にする憎まれ口以外に彼自身を語る言葉は少ない。なのにフィリプ・マーロウという探偵、あるいは今回もう一人の主人公、テリー_レノックスの個性が浮かび上がってくるのはなぜだろうか。とくにこの物語では、テリー_レノックスに対するフリップ・マーロウの友情がほんわか、くっきり浮かび上がっているように思う。最初の引用のように訳者・村上春樹は自我と言うものをブラックボックスとしてとらえ、それを「仮説」あるいは「相関性」によって、積み上げそのことを周辺から語っていくという手法がチャンドラーの独自性だと語っている。なるほど。村上春樹の小説にもたしかにこのような手法をとってると思われる作品がいくつかある。まあ、とにかく久々に存分にハード・ボイルド探偵小説を堪能させていただいた。スペンサーが出るロバート・B・パーカーにも似ていると思ったのだが、パーカーはチャンドラーの崇拝者であった。とあった。なるほど納得。
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2007.04.01
読みかけの村上春樹の初期短編集を読み終わって、もっと面白い本はないかな〜 なんて近くの書店に行ったら、チャンドラーの春樹訳があったので、早速購入。川の道端に咲いてる桜やハナニラ、そのほか名前を知らない花々が春欄間といった具合に咲いてる中を家に帰って来て、エミルー・ハリスやニルソンのCDを聴きながら、『中国行きのスロウ・ボート』の主人公が中国人の彼女に嘘をつかなければいけなかった哀しい理由について、ジュースにウィスキーをたらしたものを飲みながら考えながら、あちこちのブログの新着記事を読みながらこの記事をかいてる今です。そんな風に過ごしたくなるほど、哀しい事に打ちのめされるということもあるのだ。「人間ってなんて哀しいんだろう」。ある事をひたすらに隠すためにとる行動、くせ。もちろん理由があってのことなのだ。そんな日に、春樹の短編集、特に表題作や『午後の最後の芝生』はよく似合う。安西水丸の装丁のイラストはかっこいいけれど、スロウ・ボートにはアッテルノ? まあそこが水丸なのか。
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2007.01.21
ある人のおすすめで読み始めたのが、ガッツリはまってしまった。「世界の終わり」というおそらく人間の心の寓意「ハードボイルド・ワンダーランド」という、おそらく現実世界の寓意を交互に語り継ぐ。朝晩の通勤の電車だけでは足りず、出勤前のわずかな時間や、お昼休みのほんのひとときまで占領されてしまうほど、グイグイとひきつけられる。はじめはワンダーランドの方がその物語の主導権を握って進行して行くのだが、「世界の終わり」はワンダーランドの主人公の垂迹である影とての世界の物語なんだということが次第にわかってくる。ワンダーランドの世界ではいつから始まったのかいつもの荒唐無稽な不思議な世界のはじまりである。穴、暗闇へと読者を誘うが、「計算士」と「記号士」、つまり世界はどっちが善でどっちが悪なのか決して単純な二極化で捕らえることは出来ないということを案じさせるような上手い話。その根拠があかされるのは「世界の終わり」の心の世界を暗示した物語に秘されている。と思われる。現実の世界は具体的にどんな現実と対応しているのだろうか。それは読む人によって違う。読者は読者それぞれ読者なりの物語の歴史をもって、この物語と退避させながら読むはずだ。実際この自分も、この1週刊の現実の出来事のなかで、この物語を読んできて、その対比でそんなことも確かにあるある、と荒唐無稽なこの物語とシンクロさせながら読むことになった。「世界の終わり」の自然描写は心のありようを木や建物、川、施設、気候、住む人々などを借りて詩的に表現していて、うっとりとまたまったりと、「ハードボイルド」の冒険的なわくわく感のメリハリ。そしてたまたま、僕の現実の体験としての「コントロールドラマ」。人は人をコントロールすることによって、その人からエネルギーをもらい力を得たように思う。反対にコントロールされる方はエネルギーを奪われると感じる。エネルギーそのものは、行ったり来たりするだけで減りもしないし増えもしない。ゆえに限られたエネルギーをめぐって対立を繰り返す。いつになったら人間は人間からエネルギーを得ることを辞め、エネルギーそのものからそれを得ることに気づくのだろうか? そんな事を感じた1週間。現実のドラマとワンダーランドと世界の終わり。この本はそんなあらゆる読者のあらゆる問題を対比させたソリューションテキストのように読む事ができそうに思う。
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2006.12.25
6作目です。カバーはあっという間にできましたが、中はチームを組んで約1月かかかりました。バリアフリー・デザイン・ガイドブック。
今年も残りわずかとなりましたが、1月あまりもかかってようやく完成にこぎ着けそうだったHPのデータをなくしてしまいました。ショック。ですが気持ちを入れ替えて、後2日でやり直します。大体手順はわかっているのでなんとかなるかな。
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2006.11.19
ジェフリー・チョーサーのエピグラフが素敵なのと、松尾たいこさんの装画が素晴らしいので読んでみる気になった。なんでも、エリザベス・ギルバートはこの短編集でアメリカ新人文学賞をダブル受賞したらしい。アメリカ文学は難しいというのが今までの印象だけど、例えばOヘンリの現代版みたいな感じ、表舞台とは無関係な市井の人々のちょっとした人生論。特に一番心に響いたというか、哀しいな〜、と思った作品は『着地』。エリート好きな独身女性がアメリカ中を男を求めて放浪していた。エリートがたくさんいるだろうサンフランシスコの酒場で、男に声をかけた。ところがかれはエリートどころか、農機のロゴ入りの帽子を被り、チェックのシャツに白いソックスの冴えない落下傘兵だった。他にエリートと思われる連中がたくさんいるのだ。そして数日間彼と行動を共にする。彼のようなような人に声をかける為にここに来たんじゃないと思いながら、またエリートを求め次の土地へ移ろうとするのだけど、結局彼みたいな人間に声をかけてしまう似た者としての自分に気づく。そう思いながらも彼の元を離れなれない。あ〜哀しい、そんなもんだよな、夢を見ているようでも、結局今の自分に帰って来てしまう。同じ事のくり返しだよな。ふと高田渡の♪ふと彼に出会い、ふとキスされて、ふと彼を好きになって、ふと素晴らしいと思って…ふと彼の変化に気づいて…。というあの歌にも通じる哀しい物語。特にアメリカによくありそうな、そして日本にも、そして僕の近くにもあなたの近くにありそうなとても哀しい物語なのであった。どうやってその輪から脱出しようか。それは自らが変化することなのだろう。
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2006.11.03
今度はドイツ文学。最初はよくある恋愛小説? かなと思いながらその心地良さに浸っていたが、途中から趣はがらりと変わる。食事をするのももどかしく、一日であっという間に読み終わった。
黄疸で気分が悪くなった主人公ミヒャエルは介抱してあげたきっかけで、二人は出会いそして恋に落ちる。
ハンナはミヒャエルより21歳も年上だ。彼女の求めに応じて、ミヒャエルはハンナに様々な物語を朗読して聞かせるのだった。ところがある日、一言の説明もなく彼女は突然、失踪してしまう。その数年後、偶然にも法史学者の学生として裁判所で、偶然にハンナに再会する。そして彼女の暗い過去を知ることになる。彼女はナチスの戦犯であった。特に裁判の様子を描いた部分で「左利きだというこを告白しない限り、有罪になってしまう被告がいる。犯行は右手によるもので、左利きならその犯行はあり得ない。しかし彼は左利きだということを恥じている。君は裁判官に、何がどうなってるかを言うかい? 考えてご覧よ、彼はホモで、その犯行はホモでは行い得ないのに、ホモである事を恥じている。左利きやホモを恥じるべきかどうかという話じゃないんだ。考えてご覧、被告が恥ずかしがっているということが問題なんだ」と。これはあくまでもたとえなんだけれど、ハンナがもっとも恥じている事、そこがこの物語の重要な部分だ。
胸を締め付けるような哀しい恋愛小説だと思う。村上春樹の『ノルウェイの森』も胸苦しい純愛の物語だったが、それとは比較はできないが、これもまた切なくなるような愛の物語だ。『朗読者』というタイトルが読み終わった後になってなるほどと切なく迫ってくる。世界20カ国で翻訳され、アメリカでは200万部も読まれた大ベストセラーらしい。
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2006.10.29
ある人のblogに紹介されてたのと、装丁に興味があったので読んでみた。本の虫で容貌のぱっとしない主人公・ソーネチカ。1930年代にフランスからソ連に帰国した反体制的な芸術家ロベルトに見初められ結婚。当局の監視下の下で流刑地を移動しながら、貧しくも幸せな生活を送る。一人娘のターニャが大きくなりその友達の美少女ヤーシャが家にやってくる。そこで物語は予想外に発展していく。う〜ん、感想はとても難しい。現代の日本においてはどうという事もない、まあよくある話かもしれない。夫に裏切られても恨むでもなく、ヤーシャをも恨むのでもなく、主人公の徹底した弱者への暖かいまなざしを淡々と描いて、女の一生にしている。体制下の物語としは、パールバックの『大地』を連想させたし、ロマンスという意味では中学時代に読んだツルゲーネフの『初恋』を連想させた。モーパッサンの『女の一生』は読んだ事ないが、遠藤周作の『女の一生』もまた女の一生だ。ここではユダヤ、反体制、そんな物をかかえた、あるいは格闘した、せざるを得なかった「女の一生」なのかもしれない。ラングストン・ヒューズの愛の詩は黒人という事を取り去ってしまって読んだらただのラブソングなのと一緒。そうするって言うとなにかい? 黒人だからって愛の歌も歌えないのかい? と同じ、そういうロシア、ユダヤ版なのだろうか?
装丁が気に入った。挿画が誰かと思ったらこのblogでもお気に入りに入れてる木内達郎さんだ。いつもは老いるパステルなのだが今回は油絵か? なんといっても彼の絵が泣かせる。しかもその絵を殺さない控えめなタイトル。背の赤のファイルのインデック風のデザイン。緑のスピンがなんとも心憎い。あ〜あ、新潮社装丁室はいつも良い仕事してるな〜、畜生!!。
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2006.10.27
晴れた日の昼休みは、愛妻? 弁当を食べ終わると、BGMのCDを借りに職場の近くの図書館へ行くことが多い。三丁目坂を上って、ヒーコラ住宅街を右に左に庭先の花なんかを眺めながら歩くと、その図書館はある。今日のCDを借りてふと棚を見ると興味のあるチラシ発見。村上春樹の書いた小説の舞台となった場所がイラストマップ付きで紹介されていた。例えば「和敬塾」。主人公の“僕”が大学に通うため上京して約2年間住んでいたところ。物語のなかに和敬塾という名前はでてこないが、おそらくこの寮ではないかと思われる(『ノルウェイの森』『蛍・納屋を焼くその他の短編』「蛍」)。かなり広い敷地をもつこの寮は、『村上朝日堂(エッセイ)』にも登場する。ここでは、大学に入りたての半年間住んでいたと書かれている(『村上朝日堂』「引っ越しグラフィティ(3)」)。それから都電(19系統 王子駅前〜通三丁目)。大学に入った年の春、“僕”にとって唯一の友人だったが、高校2年で自ら命を絶ってしまった“キズキ”の恋人“直子”にばったり出会う。そして“僕”と“直子”は、中央線 四谷駅→飯田橋→お堀ばた→神楽坂と歩いてきたあと、本郷にでて、この都電沿いに駒込まで歩く(『ノルウェイの森』『蛍』)。そして椿山荘。“僕”とは寮で同室の友人“突撃隊”がある日コーヒーのびんに入った蛍をくれる。その蛍は寮の近くのホテルで客のために放したもの。そして蛍を、夏になると放すホテルというのがこの椿山荘(『ノルウェイの森』『蛍』)。
上下に分かれていて緑と赤のカバー。金の帯がクリスマスらしい装丁。どんなつながりがあるか? わからないけれど、友人に勧められて読んだときの衝撃は激しいものがあった。その後ひと月くらいはご飯もノドを通らないくらい胸苦しかった。ただの恋愛物語ではない。そして今、ゆかりの地を散歩していると、あのときの気持ちがリアルに蘇ってくる。そして何処までも青い秋の空と庭先の何気ない花。
噂によれば今年、ノーベル文学賞を取り損なったらしい。
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2006.07.26
ブックデザインをしました。生まてから2作目。 アメリカ的価値観の揺らぎです。もう、書店に並んでいるよ。今回はカバー、表紙、本文の文字組からすべてデザインしました。内容はまだあんまり読んでないんだけど、9..11テロ後のアメリカ社会の価値観の変貌について。特に7章なんか面白い。21世紀の「ボーン・イン・ザ・USA」というタイトルで、ブルース・スプリングスティーンの歌を取り上げ、アメリカに生まれたことへの誇りとベトナム戦争に傷つく矛盾から、アメリカの価値観の揺らぎを抉るというもの。帯もあるんですが、帯がかかった状態はこちら。
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2006.04.25
先日、こうの史代さんの『夕凪の街 桜の国』という漫画を読んだ。原爆をテーマにした漫画だ。そしてその後偶然、同じテーマを扱った谷川俊太郎さんの『その日ーAugust 6』という詩を読んだ。最初に、こうのさんの漫画を読んでいなかったら、きっと読み飛ばしていたにちがいないが、おかげでこの詩がスーッと入ってきた。著作権の関係でご紹介できないのだけれど、あ〜同じだ、漫画と詩の違いはあっても言いたいことは同じじゃないかと思った。
谷川さんは名前だけは通っているけど、実はたいしたことないんじゃないかと、すこし馬鹿にしていままで敬遠してきたんだけど、この詩を含め最近の詩集を読んでみると、さすが言葉の魔術師! という感じがした。であるが、ちゃんと読む者に意味をしっかり伝えてる。詩というと、自分のも含めてあまりにもその人の個人的なところへややもするとおちいりそうになって、読む者にとっては意味がいまいちわからないというのが多い。谷川さんの詩はその辺をクリアしてるし、言葉の組み合わせがシュールでありつつリアリティがあって、しかも日常を超えたある種のムードがある。やはりたいしたもんだ。
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2006.04.16
皆さんの住んでいらっしゃる、町や村に変わった田んぼはありませんか? 冬には水をはり、田植えの頃には去年の刈り取った根の跡が残っている耕さない固い土に苗を植えている、そんな変わった田んぼを見かけたことはありませんか? 近頃、そんな田んぼに、絶滅が心配されているメダカが帰ってきているらしい。
名付けて「不耕起栽培」あるいは、「自然耕栽培」というらしい。田んぼを耕さないで、苗が育つのか? ちょっと疑問に思うところだが、ひとつは稲が持ってる本来の生命力を見直す。もうひとつは耕さないことで土の表面に雑草の種が顔を出さず、種ギレをおこし、雑草が生えにくくなるので、肥料や除草剤を使わなくて済む。また、古い切り株はまだ根が生きていて、そのままで、田んぼを耕している、とうような理論らしい。
春になると、藁が残った状態のまま、田んぼに水を入れると、水中に没した藁は微生物の力で自然分解され、それまで見たことのない「サヤミドロ」という藻が発生する。次に6月頃になると、ミジンコが無数に発生する。こんどはそれを餌に、クモやカエル、タニシ、様々な小動物が住む。「サヤミドロ」が水を浄化しつつ酸素を供給し、プランクトンを生み、小動物を育む。こうやって、田んぼにメダカやトンボ、蛍、ドジョウ、コブナなどが田んぼに帰って来たというのだ。しかも農薬を使わず、普通の稲より丈夫で増収になるという。
自分が子供の頃、確かに田んぼには、ドジョウやメダカ、トンボや蛍などはたくさんいた。自分もそんな、全国的にも有名な稲作地帯で育った。しかし、物心つく頃にはすでに田んぼには農薬が使われていたし、農業用水路もコンクリートで固められていた。そして気がつくと、田んぼからそんな生き物が姿を消してしまっていた。
いつごろからそんな風に日本の田園はかわっていったのだろうか? 実は1960年代の中頃から、日本のそれは変わりはじめたらしい。昔は一枚が小さな田んぼだった、1961年に「農業基盤整備事業」というのがはじまり、増収を目指すべく田んぼに機械をいれる、そのためには一枚の田んぼを大きく区画する。さらに化学肥料や農薬が使われ、「合理化」がはかられ、農業用水や排水路も素早く水を入れたり排水できるように、コンクリートで固められていった。それまで、田に水を入れる場合、水の流れは急であっては具合が悪い。だから水路の流れはゆるやかで、浅くて、ゆったりしていた。そんな水路だからこそ、メダカやカエル、ホタルなどが生息できたのである。梅雨時には田と水路は見分けがつかないほど水で満たされ、メダカやドジョウは双方を自由に行き来できた。そんな小動物を目当てに野鳥たちまでくるのであった。ところが、水路がコンクリートに変わってしまうと流れは急になってしまい、小動物たちが卵を産み、隠れ家にもなっていた水草や藻が流されてしまう。かつてそうやって水路の周辺の生態系が崩壊してしまった。
ところが、最近そんな「不耕起栽培」をしている田んぼにメダカが帰ってきたばかりではなく、冬にその田んぼに水をはっていたらマガンやサギ、白鳥までやってくるという。「冬期湛水水田」と呼ばれているその水田は「不耕起栽培」の手法のひとつらしく、春に雑草が生えにくくするという効果があるらしい。水鳥は残された古株に棲む生物を目当てにやってくるらしい。それが地方の農村のちょっとしたニュースになった。その記事をみていた、かつて雑誌の編集者をしていた人が、新潟のトキ「優優」が2007年に野に放たれるとうことと結びつけて、佐渡にも「不耕起栽培」の田んぼを増やして、「優優」のエサを確保しようと、運動をおこした。そして各方面の人々の心を動かし、ついに農薬の空中散布をしていた佐渡においても試験的に「不耕起栽培」が開始されたらしい。
稲しか育たない、育てようとしない今の米作りは、やはりおかしいのではないか? 鳥達までたくさんやってくる田んぼで育った米の方が良いような気がするのは自分だけだろうか? しかもトンボや蛍が飛び交う田園風景が戻ってくるというのなら、なおさらこのビオトープをみなおしたい。
金丸弘美さんが書かれた「メダカが田んぼに帰った日」という本を読んで目からウロコだった。
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2006.01.03

『今、会いに行きます』を観た。ファンタジーということなので、幽霊が出てくるお話なのかな〜 なんていうことを、あんまり考えなければ、単純にラブストーリーとして観れて良いのではないか? セカチュウもそうだったんだけど、愛し合った頃のことを、もう二度と戻らないあの頃の想いでとして語るスタイルが、熱くなってるその当時よりも冷静に過去を振り返ることによって、美しくそして哀しく描かれるのだという感じ。観どころはやはり、二人の出会いがすれ違いの数年を経て、突然ダムが決壊するように接近する部分でしょう。まあ、うまくいったからいいもんだけど、なんか現実にはそんなに上手くはいかないよな〜 なんてモテない自分は、ちょっとそんなふうに考えてしまったり。
重松清の『四十回のまばたき』を読んだ。解説に、欠落感を抱えて生きる全ての人へ送るとあった。確かに欠落感を抱えてる自分にとっては、優しい読みものではあった。冬眠症という病気があるのをはじめて知った。鬱病の一種らしい、そういえばこのblogをはじめるきっかけは、似たようなことで悩んでいて、鬱病で悩んでる人のHPに書き込みなんかしてることからはじまった。あのころのことを思い出した。
最近、石田衣良を何冊か読んでみた。『池袋ウエストゲートパーク』からはじまって、三作目まで、そして直木賞作の「4TEEN」を読んだ。かつて詩人の吉野弘は『夕焼け』という詩で現代人の傷つきやすい優しい心の哀しさを歌った。それから何年たったのか、石田衣良は新しい時代に、そんな心をうまく新鮮に前向きに生きる魂としてさわやかに、繊細にかつ骨太に描いているように思う。傷つきやすい優しい心の素敵さを現代に生き生きと描いてみせたと言うか、しかも池袋だ。そんな街が池袋だなんて、いいじゃないか。
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2005.12.11

新聞のコラムにこうあった。フランスの思想家シモーヌ・ヴェイユは25歳の時、労働者の実態を体験したいという望みから、あえて未熟練工として工場で働いたらしい。しかし四六時中、監視され罵倒される環境は、自身を「奴隷」と思わせてしまうほど、彼女の精神を変化させた。それでも働き続け、工場体験を終えた翌年、「わたしは、やがて自分がなんとか自分を取り戻せる日まで、こういう生活を耐え忍ぼうと自分で誓いを立てた」とある婦人に手紙を書いている。
『池袋ウエストゲートパークII(少年計数機)』の『水のなかの目』という章に出てくる主人公を守るボディ・ガードのミナガワが自身の生い立ちを語る部分がある。彼のニックネームは「肉屋」。地方の街で、子だくさんの漁師の子として生まれた彼は、中学を卒業して隣町の肉屋へ就職した。朝一番で店を開け、昼間は店番、夜は店を閉めた八時から次の日に店に並べる肉をさばく。ボーナスが年一回でて、店主はスズメの涙のようなそのボーナスを払う嫌さ一心で小僧を徹底的にいじめ抜く。商売ものに傷をつけるつけるたびに、包丁の柄で頭をどやしつけられた。そんなこんなでも二年もそこで我慢したらしい。そしてボーナスを手にしたが、そのおかげで、小指がつぶされ、右目もつぶされたと。実家で、紅白歌合戦を見てると怒りが湧いて来て、店に戻ってその主人をフックに吊るして……。中略、それから家に帰って紅白の続きを見て、おまわりに補導されたときには正月になっていた。
今でも、それに近いことはそこらじゅうにあるに違いない。劣悪な労働環境と格闘し、「内面」では「自己の尊厳」を確立することは、誰人も侵すことができない。逃避しそうな自身を変えない限り同じことで悩まなければいけないし、今いる現実のあれやこれやが人生のすべてなのだ。な〜んちゃって。
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2005.12.06

今、読んでる小説のなかにこんなことが書いてあった。
「ねえ、なぜあなたたちのところに、ちいさな子どもまで集まってくるのかしら」
その答えはおれでもできる。京一の顔からは感情が消された。
「ガキどもには、モデルがない。身近なところに目標になる大人がいないし、夢も見せてもらえない。おれたちはモデルと絆を用意する。自分が必要とされている充実感、仲間に歓迎を受ける喜び。規律と訓練。今の社会では得られないものを、力をあわせ見つける」と。
今の大人たちが目標とされるかということではなくて、あの頃の自分の目標だった人のことを思い出した。ものごごろつく頃、気付いたら僕は世間からはみ出ていた。それでもはみ出ている人を目標にすることなら出来そうな気がした。たとえば、耳を切ったゴッホ、アル中のユトリロ、貧乏で死んだモジリアニ。そんなはみ出ていた大人たちを目標にして、今までなんとかここまでやってこれたような気がする。
小説をかくということは、告白だ。あらゆる種類の告白だ。自分のことを話すときの恥ずかしさ。なのでそれは物語によって語られる。そんな様式なのだろう。
あたりまえか。
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2005.11.08
第二次世界大戦がはじまって、芸術の舞台はパリからニューヨークへと移った。パリで活躍していたアーチストたちが次々、ニューヨークへと移住しはじめたからだ。かつて風景画といえば、パリの裏町か郊外の田園風景であった。しかしニューヨークに移り住んだ彼らにとってそれは摩天楼の風景であり。スーパーマーケットに並ぶキャンベルスープの缶であり、ミッキーマウスが登場するコッミクであったりそして、マリリンモンローが登場する映画であった。彼らは、そんな風景を描きはじめた。そして奇妙な絵画が出来上がった。はたしてそうやって出来た絵は絵であるのか? 誰も彼も問いはじめた。いったい絵画ってなに? とこうなる。絵を描く意味が急にクローズアップされた。そしてそれはおそらく、絵画の要素のひとつ一つを突き詰めて行く方向に向かったのだと思う。例えば、フランク・ステラに代表されるようなミニマルアートに。あるいはジャクスン・ポロックに代表されるような、抽象表現主義に。そのほかにもあるかもしれない。色や形だけの面白さを追求し、その他の意味が介入することを拒絶するとどうなるのか? 絵画は実験をやめなかった。それがコップの中の嵐と呼ばれるような、行き詰まりを呈した。描く楽しさはどこへいった? そこから本当の意味の絵画は? という具合に、今まさにこれからこそが絵画にとって新しいステージなるのだと思われる。
それをふまえて、現代の恋愛小説のことを考えると、それと似通っていて非常にわかりやすいのではないかと思ったのである。ごひいきにしているある人が今、短編恋愛小説を毎日書いている。最近、それを読ませてもらっている。時代とともにもちろん恋愛のスタイルも変わる。かつて田園風家を描いていた画家たちがポップアートの作家たちのように、彼らにとっての恋愛を描くようになった。当たり前だけど。でもそれは当然、ポップアートの作家たちのように「それははたして小説なのか? 文学なのか?」と批評にさらされることになるのだ。確かに新しい、例えば彼女がだと思っていた人が実は人妻だったり。あるいは女性専用車両で見つけた同性愛とか。これからの恋愛の新しいスタイルはいくらでもある。
ちょっと、考えてることと、書くことがずれてきそうなので、この続きは、もうちょっと考えてから書くことにする。
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2005.02.07

ポシャッた小説のワンカット あずま荘
1984年のドラマ『昨日、悲別で』を最初のほうは見ていたのだけれども、途中から見なくなってしまって、ストーリーの記憶が途中で欠落していた。それでシナリオが図書館にあったので借りて読んでみた。思い出した、思い出した。ダンスに夢を賭ける主人公・竜一(雨宮良)とオッパイ(石田えり)の物語。悲別と言う炭鉱のある街の出身の二人とそこに残る竜一の母親・春子や竜一の親友達の青春。悲別は歌志内市をモデルにしたと言われている。今もまだ『悲別ロマン座』は残っているらしい。そういえば旭川に行ったとき気になってその近くをわざわざ遠回りして通ったことがあった。
続きは明日、書くかもしれないし書かないかもしれないし。とにかくちょっと電車の中で泣けてしまった。
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2005.01.23

主人公の弟が急に力を持つようになった。人の心を読んだり、未来を予言したり。現代人は、さまざまな技術を開発してきたと同時に逆にいろんな能力を失ってきたとも言える。PCを操れるようになったのはいいが、漢字の書き取りや計算能力は退化した。そんな感じで、技術を獲得した代わりに多くの能力を無くしてきた。ばななはこの本で、そのような失われようとしてるコミュニケーションを拡大して見せたのではないかと思った。それを逆に辿ってみれば、人類は言葉を持つ以前はテレパシー的なコミュニケーションをしていたといわれる。そこまで行かなくても、言葉を超えたコミュニケーションやリビドーによって一日一日の生活が積み重なっていく。その積み重ねが緩やかな流れになって、主人公の人生やその周辺を動かしていく。その緩やかな流れが少しづつ合流して大きな大河となるように歴史は作られていく。とばななはそのように世界を見ているのではないか。
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2005.01.17
読み始めるとそこそこ気持がよくて、ばななの魔術に引きこまれてしまって、振り返ってみるとすっかりなにもかも忘れてるというようなことが多かったので、あえてそこに竿をさすような感じで箇条書きにして、バナナの感想を書いたらはっきり、くっきりするのかな?
1.読後感は確かになるほどな〜、という感じで、感覚の鋭さ、デリケートさを感じる。
2.男の感受性とは異質なもののような気がする。
3.ストーリーが茶の間で展開する。
4.ストーリーをすぐ忘れてしまう。
5.たとえば、これは『不倫と南米』の場合なんだけど、そのなかの『プラタナス』という短編。「年の離れた夫の姉に、夫の死後に必要最小限の相続しかしない誓約書を書かされたのだけれど、付き合っていくうちにそれが単なるもっとも親しい人がいなくなることへの恐怖であることを理解して、そのことへ気にかける気持が二人の関係に変化をもたらし、主人公の人生にも変化をあたえる」というようなことが、この場合だけはなくて、ほかの作品もそんな感じでストーリーが展開していく。そのへんがばななのテーマなのか?(ちょっとうまく言えない)。
6.なにしろ、ちょっとうまく言えない作家。
いまは引き続き、ばななの『アムリタ』を読んでいる。『上』を読み終えたばかり。明日から『下』。これもストーリーはだらだらと展開するが、話ソノモノは荒唐無稽。弟が予知能力を身につけてしまう。そして彼氏や彼氏の友達、自分までも? この先どう展開するやら。
また気づいた点があったら箇条書きにする予定。
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2005.01.07
最近、TVのドラマは当たっている。『冬の運動会』やら『夏目家の食卓』は面白かった。であるが、昨年暮れから本は当たっていない。読みたい本がなくなってしまって、手当たり次第読んでいたのだが、面白くない。自分の場合そうゆう本は途中で挫折して放り出してしまう。そんな具合で、3冊か4冊ぐらいそんなのが続いた。だいたいタイトルが気に入らないと読む気にならない。自分のアンテナに引っかかったタイトルで選んでみても面白くないのもある。気に入った作家のなら、だいたい何を読んでもあまりはずれない。たまに冒険してちがう作家に手を出すのだが、当たるときもあれば外れるときもある。だいたい外れることが多い。それでblogで面白そうなのがないか探してみる。それでこれ、二人の人が紹介している。Amazon.co.jp: 本: オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す。ひとりはなつのなか の なのかさんもうひとりは気まぐれ通信さんが紹介してる。ぜひ読んで見たい本だ。それと関連してよしもとばなな『アルゼンチンババア』というのも気になるタイトルだ。当たるかはずれるか是非これも読んでみたい。
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2004.11.07

新宮晋さんは彫刻家。自然エネルギーで動く彫刻を作っている国際的に知られてる人。皆さんもどこかで出会っているかもしれない。そんな彼が初めて手掛けた絵本が『いちご』だ。さすが彫刻家。デッサンはお手のものだが、構成が素晴らしい。たとえばたくさんの星を見ていちごは生まれる。それは真っ白ないちごのつぶのはじまりで、真っ白な画面に緑の線だけで表現される。そしていちごが夕焼けを見たシーン。それは真っ赤なただの印刷の金赤、そしてそれが赤いいちごに生まれ変わる瞬間。そのデッサンがアップされ、断面が現れる。黄色のつぶつぶが核にまで及んでいるなんて誰が見ているだろうか? たった一つ粒のいちごが一つの惑星になる。たったひとつぶのいちごに宇宙は詰まっている。そしてそれは宇宙ソノモノ。バイリンガルでレイアウトされたその画面は、いちごの中に宇宙を感じた彫刻家の感性ソノモノ。
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2004.10.23
『サヨナライツカ』を読んでみた。少し前に『目下の恋人』のなかの『好青年』というのを加筆した小説。読んだ瞬間、「これは読んだことある」と思った。あらすじを書くとネタバレになってしまうので、最小限に。ちょっと違うかもしれないが、二股かけて何故悪い? という感じ。婚約中の主人公が別の人を愛してしまう。結婚式までの約四ヶ月間を夢中で愛し合う。お互い決して『愛』という言葉は絶対に使ってはいけないということを百も承知で愛し合う。ゆえに二人は苦しむ。激しく苦しく愛し合う。苦しい故にそれは燃える。一瞬に燃えるがゆえに離れても、それが永遠に愛するエネルギーになる。主人公は聞く「臨終の時に、君は愛されることを思い出すか? それとも愛することを思い出すか?」相手は、最初「愛されること」と答えるが、しだいに「愛すること」という風にかわっていく。本来その質問は、婚約者が主人公にした質問だった。ひとを愛することは仕方ないこと、それに背けば自らを背いたことになる。しかし愛することは辛いこと、独占すること。束縛しなければそれは愛ではない。それ故に苦しむ、苦しむ故にそれは「永遠」に形を変える。タイにバンコックを舞台に。
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2004.10.07
辻仁成の『目下の恋人』とい短編集のなかに、『愛という名の報復』とういうのがあった。ある作家が二十年も愛人を囲っていたのだが、奥さんにばれて離婚する事になった。とここまではよくある話。何も知らなかった奥さんはその作家との美しい思い出を見ていくことだけを決意し、それが愛の報復になるというのだ。そしてそれから10年。作家は奥さんの大事さをしみじみと感じ作風も他者のための創作をやめた。そんなとき「許してあげるわ」と奥さんが戻ってくる。
————長い10年だったけれど、希望はまだ捨てずにとっておいた。それがこのカウチであり、それが彼女が座るべき場所、いるべき場所、である。その一席だけあれば、十分だった。あなたが座れるスペースさえあれば、世界はまた元に戻ることが出来る…………
それが、世界貿易センターの例の事件からはじまった一連の背景のもとに書かれている。これが辻仁成の彼なりの答えなんだなと僕は読んだ。
ほかにも『目下の恋人』には「一瞬が永遠になるものが恋、永遠が一瞬になるものが愛」というようなことが書かれていた。「愛や恋のことを語らせたら彼の右に出る者はいない」といったら言い過ぎだろうか。
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2004.08.31

三宝寺池の夕日。ほんのすこし秋を感じさせる空
川上弘美の『センセイの鞄』を読んでみた。こんな出会いもあっていいのかというぐらい、恋のはじまる場所としてはふさわしくない一杯飲み屋は奇抜だ。主人公は37歳の独身女性ツキコさん。そのツキコさんが三十数歳も年上でかつての高校の国語教師に恋をする。そして会う場所はほとんど家の近くの一杯飲み屋。酒の肴の趣味が一緒で飲み方も一緒。そんな二人はひいきの球団のことで口をきかなくなったりするが、だんだん仲良くなっていく。センセイは市にさそったり、ツキコさんのほうからもいろいろモーションをかけるのだが、センセイの気持ちがいまいちわかならいが、最後の方でとうとう、センセイはツキコさんにデートを申し込む。そして近くに抱き寄せて、結婚でも申し込むのかと思ったら、「ワタクシと、恋愛を前提としたおつきあいをして、いただけますでしょうか」とくる。ツキコさんはもうすでにセンセイと恋愛をしているつもりになっているのに、ガクッとくる。
まぁ、おそらくツキコさんはそんなセンセイの純なところが気に入ってるのだとは思う。普通ではこんなカップルいるの? てな感じの二人だが、それを感じさせないどころか、そんな二人だから出来る純愛。なんと美しいことか。恋愛にふさわしくない二人、そして恋愛にふさわしくない場所、全てが恋愛にはふさわしくないが、リアリティもって愛は純粋さを訴えてくる。現代人の恋愛観に投げかける痛烈な批判だと思う。装幀はキャップ。それしか書いてなかったけど、おそらく飛ぶ鳥を落とす勢いの藤本やすしさん。ベージュのミューズコットンを使ったカバーはやはり品のいい装幀だ。
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2004.08.30
『TUGUMI』を読んでみた。読んでいるうち、「これは前に一度よんでるな!」というのを思い出した。でもなんとなく、物語の展開が予測できない。ということはよほど一回目はピンとこない小説だったんだなと思った。そういえば、吉本ばななは『キッチン』も読んでるけれどもさっぱりわからなかった。しかし、二回目この『TUGUMI』を読んで、しっとりした落ち着いた小説だなと思った。少女を主人公にした青春小説という感じがした。あとがきにもあるのだが、作者が毎夏家族で出かけた西伊豆のことを書いてあるらしい。「その何もなさ、いつも海があって、散歩や、泳ぎや、夕暮れをくりかえすだけの日々の感じをどこかにとどめておきたくてこの小説を書きました」といっている。易しい言葉、読みやすい文章、のわりに奥の深い表現。こんなに難しいことを、よくもこんな簡単な易しい言葉で表現できるもんだなと感心した。やはりタダモノではない。文庫版のあとがきにもあるのだが、「はじめて恋をしたときの世界観、宇宙観で書かれている」とあった。また「その頃の恋はごうまんな人間にはじめて生の風景を見させてくれる」とも。夏の終わりに読む本としてはなかなかいいのでは? つぐみの新しい人生のはじまりで終わります。結構よかったので、日本大学芸術学部長賞をとった『ムーンライト・シャドウ』も読んでみた。これもちょっとSF的だけど、恋人を事故でなくした主人公の微妙な心理が、易しい上手い言葉で複雑に書かれていたって感じ。ブックデザインは祖父江慎さんだった。
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