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2010.12.23

誰かに見つけてもらうために

例えばある人に関わることを、何十年もして異国のある場所で出会った夕焼けを見たときに思い出すというようなことがあるだろうか? 物語は、こちらの世界からあちらの世界に自ら選んで行った人々のことが描かれている。そしてこちらにとどまってまだ生きている人のことも。キズキからはじまり、直子、直子のお父さんの弟だったか。ハツミさんもそのひとりだ。彼女は僕が生活する寮での唯一の知り合いと言える永沢さんの彼女だ。彼女もまた、愛していた永沢さんが外交官として外国へ行った後、誰かと結婚してその二年後に手首を切って自殺した。そんなにとびぬけて美人ではないけれど、人の心を強く揺さぶるものを持っている存在。そんな彼女がもたらした「僕の」心の震えを、十数年後に出会ったニューメキシコ州サンタフェのピザ屋でビールを飲みながらその圧倒的な夕暮れのなかで「僕は」理解した。それは、これからも永遠に充たされることがないであろう少年期の憧憬のようなものだったと。
そんな出会いを僕は今までしてきたただろうか? そしてこれからも。
何十年もたって読み返した『ノルウェイの森』の一節にそれはひっそりとあった。しかもそれは誰かに見つけてもらうためにあるように僕には思われた。

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2010.12.12

映画「ノルウェイの森」を観る

原作のある映画を原作を読んでから観るとがっかりさせられることが多いけど、この映画は違ってた。映画でしか表現できない「ノルウェイの森」になっていたと思う。俳優達の抑制のきいた演技も上手かったと思うし、映像も普通の映画とはひと味違っていた。1969年の頃の若者達のファッションや部屋の壁紙の模様などの柄が、リアルに撮影されてたし、部屋の外の風景を撮らない撮り方は新鮮だった。たとえば、直子の誕生日を祝う部屋の窓には、あり得ないくらい雨水が流れていて、部屋の外の風景をぼかすやり方で、二人の心理を部屋に閉じ込めようとするかのようだ。内田恭子さんが、「雨が降っているときは心が落ち着き、大事なことを冷静に見つめることができる」と指摘するようにその効果は大きいと思う。また、緑の家に招待されて二人で食事する家は、障子かなにかで遮られてやはり外の景色は見れない。だけども障子を通して昼間の光や夕暮れの陰など時間の経過と共に移り行く二人の気持ちを感じられるようになっていたと思う。また、直子と暮らすつもりで借りた住宅の入り口のガラスドアの光を内側から映すやり方によって、外を映すのではなく、あくまで外を向いてる心の内側の心理を映そうとする。それに比し直子が大事なことを打ち明ける草原の風景や、彼女を失って旅をする海岸の風景イメージのなんと広々としていることか、対照的だ。
 音楽もまた素晴らしい。阿美寮で歌うレイコさんのガットギターにのせて歌う主題歌や、ワタナベが直子を失って旅先の海岸で慟哭するときのオーケストラの不協和音、切なく歌うギターソロが張り裂けるような悲しみを演出してるし、そしてあのシーンの数々。特に気に入ったのはレイコさんとのあのシーンだ。のけぞるあの瞬間はあまりに哀しい。「上手くいかない」ことが人の情緒を育てると平間至さんが言ってた。原作を読んだ87年の頃の僕自身のことが、原作に重ね合わせて切なくなった感情と共に映像になって新たによみがえくる。「ノルウェイの森」によって、「そういえば純愛というものもあったな」と、確かに感じさせてくれたあの頃の時代の気分をこの映画によってたっぷりとまた味あわされた。

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