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2008.04.06

春のモルダウみたいな『スプートニクの恋人』

冒頭の竜巻の譬えみたいに、行く手の形あるものをなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、叩き潰すような「すみれ」の初恋ではあったけれど、「ぼく」にとっては、春先のモルダウのように、川面に渡るゆるやかな風、若い樹木の放つのびのびとした匂いそのものような「すみれ」。誰よりも理解し合っているけれど、埋めようと思ってもどうしても埋めるこの出来ない溝、一つになれない若い命たち。手に入れようと思っても、手に入れないかもしれないものを求めて、「すみれ」は「ミュウ」のあちら側をのぞきに行く。それは確かに竜巻のような恋だ。そして「すみれ」は帰って来ない。

あるときの主人公は、「ぼく」であり「すみれ」であり、「ミュウ」だ。それぞれの主観が全体の客観をつくっている。そしてものを書くとについて、それは思考するために書くのであって、書きながら思考し、理解する行為だと小説家志望の「すみれ」に言わせる。「すみれ」が書けなくなるということは、思考できなくなる、思考をやめること。それが分かっていながら、「ミュウ」への恋にのめり込んでいく。そこには思考することとはまた違った理解、世界への認識の仕方があるかもしれないと言ってるのだろうか? にもかかわらず「すみれ」はこちら側からあちら側へ行っていまったのだ。そんな「すみれ」を一番理解していた「ぼく」。でもぼくは「すみれ」と一つになれない。なんと哀しい季節が人生にはあるのだろう。

『人にはそれぞれ、ある特別な年代にしか手にすることのできないとくべつなものごとがある。それはささやかな炎のようなものだ。注意深く幸運な人はそれを大事に保ち、大きく育て、松明としてかざして生きていくことができる。でもひとたび失われてしまえば、その炎はもう永遠に取り戻せない。ぼくが失ったのはすみれだけではなかった。彼女といっしょに、ぼくはその貴重な炎までも見失ってしまったのだ。』永遠に取り戻せないという思い、悲しみは無くしたからこそ感じるのである。自分には、はたしてそんな大事なものを手にし失ってしまったと、同じくらい感じたことがあったろうか? 「すみれ」のような友達が、僕にとっての特別な年代にもしいたならば、僕の人生ももっと切なく、そして美しくなっていただろう、春のモルダウみたいに。僕はそれが哀しい。

結局、すみれは僕のもとに戻ってきたのか? それとも夢なのか? 気になる結末であった。今、僕は良育の「芭蕉布」を聴きながらこれを書いている。

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