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2008.04.27

『Little DJ』を観てみた

『Little DJ』という映画のDVDを借りて観た。映画には白血病が付き物みたいに、またかという感じでたいした期待感も無しに観たのだが、どうしてなかなかシンプルで良かった。最後に、主人公は決まり切ったように白血病で死んでしまう。人に想いを伝えることの大事さを、この映画はシンプルにそして見事に伝えていたと思う。
実は主人公と同じく僕もその年代を、地方の病院で過ごし、ラジオのDJに病院から電話でリクエストをしていた。本当に完治するのだろうか? という不安をかかえながらも同じ年代の入院患者たちと過ごした何か月間。やることといえば、ラジオを聴くことぐらい。そして、楽しみは自分の名前が読み上げられ、お気に入りの曲がラジオから流れること。それがささやかな楽しみだった。
この映画によって、あの頃のことがフラッシュバックされた。神木隆之介君のピュアな感じと福田麻由子さんの笑顔のキャスティングも良かった。観る人によっては、「セカチュウ」に似てるとかよくある話。なんて思う人がいるかもしれが、僕は素直に良い映画だったと思う。

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2008.04.13

『年輪・歯車』に思う

高田渡の歌に『年輪・歯車』というのがある。『年輪』という有馬敲の詩と『歯車』という山之口貘の詩をくっつけた変わった歌だ。前者は「ふと彼に出会って…ふとキスされて…ふと彼が好きになって」、そして最後にはひとりぼっちになったことを感じる。後者は「靴にありついてほっとして…ホッとしたかと思うとズボンがボロボロ。そしてズボンにありついて」最後には元に戻るという詩だ。人生はまわりまわって元に戻るというような、人生の悲哀がその二つの詩には共通していて、渡の目はそのことを偶然の一致の出会いのように喜んで、多分歌にしたのだと思う。その悲哀を陽気に歌って笑い飛ばすかのような渡の歌が好きだった。そして最近それらの詩に、すこし違う意味を見い出した。『座布団』ではないが、安楽を求めて、あるいは自分の居場所を求めて、人はあくせくその空間を広げ働き、生活する。そしてやっと落ち着いて、一杯酒でもやろうかなんて思っても、そんなのも長く続かない。また自分の座ってる居所がなくなっていることに気付いて、その恐怖にお尻を叩かれてまた、自分の居場所を広げようとあくせく頑張らなくてはいけないのだ。それが繰り返し続くのが人生、ととらえるのか、あるいは人生とは常に戦いの連続であり、それを止めてしまうことの警告なのか。今ある場所に安住しよう思ったとたん、受け身になり守りに入る。そこから腐敗は始まり、自分の居場所がなくなるまでそれに気付かない。そしてまたそれによって次の上着を求めて、心を入れ替える。たまには涙を流し…。その涙が実は生きてる証なのかな。なんて、この歌に前向きな意味を感じる今日この頃。

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2008.04.06

春のモルダウみたいな『スプートニクの恋人』

冒頭の竜巻の譬えみたいに、行く手の形あるものをなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、叩き潰すような「すみれ」の初恋ではあったけれど、「ぼく」にとっては、春先のモルダウのように、川面に渡るゆるやかな風、若い樹木の放つのびのびとした匂いそのものような「すみれ」。誰よりも理解し合っているけれど、埋めようと思ってもどうしても埋めるこの出来ない溝、一つになれない若い命たち。手に入れようと思っても、手に入れないかもしれないものを求めて、「すみれ」は「ミュウ」のあちら側をのぞきに行く。それは確かに竜巻のような恋だ。そして「すみれ」は帰って来ない。

あるときの主人公は、「ぼく」であり「すみれ」であり、「ミュウ」だ。それぞれの主観が全体の客観をつくっている。そしてものを書くとについて、それは思考するために書くのであって、書きながら思考し、理解する行為だと小説家志望の「すみれ」に言わせる。「すみれ」が書けなくなるということは、思考できなくなる、思考をやめること。それが分かっていながら、「ミュウ」への恋にのめり込んでいく。そこには思考することとはまた違った理解、世界への認識の仕方があるかもしれないと言ってるのだろうか? にもかかわらず「すみれ」はこちら側からあちら側へ行っていまったのだ。そんな「すみれ」を一番理解していた「ぼく」。でもぼくは「すみれ」と一つになれない。なんと哀しい季節が人生にはあるのだろう。

『人にはそれぞれ、ある特別な年代にしか手にすることのできないとくべつなものごとがある。それはささやかな炎のようなものだ。注意深く幸運な人はそれを大事に保ち、大きく育て、松明としてかざして生きていくことができる。でもひとたび失われてしまえば、その炎はもう永遠に取り戻せない。ぼくが失ったのはすみれだけではなかった。彼女といっしょに、ぼくはその貴重な炎までも見失ってしまったのだ。』永遠に取り戻せないという思い、悲しみは無くしたからこそ感じるのである。自分には、はたしてそんな大事なものを手にし失ってしまったと、同じくらい感じたことがあったろうか? 「すみれ」のような友達が、僕にとっての特別な年代にもしいたならば、僕の人生ももっと切なく、そして美しくなっていただろう、春のモルダウみたいに。僕はそれが哀しい。

結局、すみれは僕のもとに戻ってきたのか? それとも夢なのか? 気になる結末であった。今、僕は良育の「芭蕉布」を聴きながらこれを書いている。

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