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2007.04.30

男の世界

GW前半もあっという間に終わり。特に予定もなかったので、区立総合体育館でトレーニングの講習を受け、区のスポーツジムを使用することが出来るようになった。しばらくここに通って体を鍛えようと思った。特にGWは出かける予定もないので始めるにはちょうど良いかな? と思った。家から一番近いこの施設、ちょっと建物も古いし、マシンも古い。なので多分人気もあまりない(多分そう思う)。トレーニングジムというと普通は若い女性もたくさんいて何やら華やいだ雰囲気があるが、ここはちょっと違う。なんというかハードボイルドなのだ。ロバート・B・パーカーのスペンサーやレイモンド・チャンドラーのフリップマーロウなんかが通ってそうな雰囲気。男でもちょっと入りにくい雰囲気。筋骨たくましいお兄さんやらおじさんが、黙々とベンチプレスなんかと取り組んで、汗水流している。一見、タフな連中ばかりなのだ。なんか声もかけづらい。と思いきや、以外と礼儀は正しい。部屋に入ってくるときは「こんにちは!」と、帰りには『失礼します!」など大きな声で挨拶する。その度にこちらは「ビクッ」と怖じ気づいているのだが…。まあ、そんなところに、ここ2.3日通っている。初日には腹筋のマシンで、痙攣を起こしてしまった。何でもないような顔をしてやり過ごしたが…情けない。それに今まで女性は一人しか見ていない。まあ、女性が気軽に入ってくる雰囲気ではありませんな〜。でもそこが好き。まあこのハードボイルドな環境で少し体を鍛えようと思う今日この頃である。

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2007.04.22

インスタレーション

Tomato
昨日、数十年ぶりに現代アートのパフォーマンスを見に行って来た。今はパフォーマンスとは言わずにインスタレーションと言うのか? 彦坂尚嘉+歌謡ミニマルミュージックバンドの奇怪な行為と音楽。フロアーに並べられた100本の牛乳瓶を、今まで歌謡曲を演奏していた作者・彦坂尚嘉氏とバンドのメンバーがハンマーで次々と叩き割る。そしてまた演奏に。しかしその演奏は突然、同じところを繰り返したり、観客に拍手を強要する。その手拍子に神が乗り移ったように狂う。そして、カンダーリしたような人物が二人が登場してガスマスクのようなものに叫び続ける。それはホースで赤い巨大なトマトのような風船に接続されていて、叫び続けるたびに大きくなる。最後に彦坂尚嘉氏が下着姿で登場。バケツ2杯分のトマトを被る。観客は飛び散るトマトをさけるため、トーメイのビニールを頭からかぶり、観劇? する。
最後に彦坂尚嘉氏が「越後トリエンナーレ」がみんな一つの方向に向かってしまったことへの反動だと述べる。イラクでは自爆テロが、個人では銃の乱射事件。体制に対しての反抗という意味のようなことを述べた。なるほど。たしかにグローバルスタンダードやアメリカに対する反対はあるのだろう。おどろおどろした、非科学的、論理的には納得できない情動が人間にはあるにはちがいない。表現としては、たとえば土方巽や大野一雄がやった暗黒舞踏なんかとどう違うのだろうか? 


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2007.04.08

『ロング・グッッドバイ』を読んでみた

訳者のあとがきに、朝起きたら腕が3本になっていた人間の物語を書くとしたら、中略、つまり腕が1本増えたために主人公がとる行為と、その行為が招聘するであろう別の行為との相関性の中に、腕が増えた理由理由も(自発的に)暗示されていくべきだというのが、チャンドラーの考え方なのである」とあった。

この1週間、朝起きて出勤するまでのわずかな時間、電車の行き帰り、お昼休みのわずかな時間、帰宅してから寝るまでの一瞬。仕事をしている以外のほとんどの時間をこの本を読んで過ごした。一体犯人は誰? 事件はどうなっていくのがだろう? 全くストレスのたまるハードボイルド探偵小説である。主人公フリップ・マーロウは、様々な登場時分物に皮肉な憎まれ口をたっぷりと口にはするが必要最低限の話の筋道しか言わないように思う。なのでそのことついて、マーロウがどう思ったかという説明もない。ただ事実を突き放して客観的に進める。なのでそこには多くの疑問が残る。その疑問を読者は解決しようと先へ読み進めるのだ、なかなか核心部分に触れないもどかしさがある。ようやっと後半の後半になってその理由が納得できるといったように書かれている。主人公フリップ・マーロウについても自ら口にする憎まれ口以外に彼自身を語る言葉は少ない。なのにフィリプ・マーロウという探偵、あるいは今回もう一人の主人公、テリー_レノックスの個性が浮かび上がってくるのはなぜだろうか。とくにこの物語では、テリー_レノックスに対するフリップ・マーロウの友情がほんわか、くっきり浮かび上がっているように思う。最初の引用のように訳者・村上春樹は自我と言うものをブラックボックスとしてとらえ、それを「仮説」あるいは「相関性」によって、積み上げそのことを周辺から語っていくという手法がチャンドラーの独自性だと語っている。なるほど。村上春樹の小説にもたしかにこのような手法をとってると思われる作品がいくつかある。まあ、とにかく久々に存分にハード・ボイルド探偵小説を堪能させていただいた。スペンサーが出るロバート・B・パーカーにも似ていると思ったのだが、パーカーはチャンドラーの崇拝者であった。とあった。なるほど納得。

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2007.04.07

『イメージのうた』と『あれは春だったね』とボブ・ディラン

拓郎の『イメージのうた』『あれは春だったね』なんか好きで良く聴いた。拓郎もかっこ良かった。特に自分にとって思い出のアルバムはライブ『ともだち』だ。受験勉強しながら、また、田んぼの蛙の声と一緒に良く聴いた。そしてこの年になって、ディランを知り『BLONDE ON BLONDE』を聴いた。ハーモニカホルダを」ぶら下げて歌ってたあのこのろの拓郎とディランが重なった。トロトロしたリズムに乗りネチッコク延々とう歌う『イメージのうた』は似ているわけではないけど、なんとなく『Just Like A Woman』を思い出させるし、『Suck Inside Of Mobile With The Memphis Blues Again』の明るいノリは『あれは春だったね』を思い出させる。『I want you』はなかなかグッドなご機嫌な曲で、ビートルズも想起させる。そういえば、『Rainy Day Woman #12 & 35』はイエローサブマリンに似てるような気がする。まだ数回しか聴いてないけど、この2曲あたりがなんかいい。もっともっと聴き込むと他の曲もよくなるに違いない。カントリーの歌い手・エミルー・ハリスもディランを良く聴いていたらしい。特に彼女にとって『アナザ・サイド・オブ・ボブ・ディラン』は人生を変えた1枚として、短い文章を書いている。ちょっと引用になるが。

彼は、私達の世代の若者が自分の生きる道を探すために手助けをしてくれた。彼は、私達の生の言葉を詩に注ぎ込み、いま何が起きているかを、私達が知りもしなかったことを語った。まだ芽が出るには早かったが、私達には心を揺さぶる“種”があり、ディランは、それを私達に気づかせてくれた。(GQより)

その後、彼女は『欲望』でいっしょにプレイすることになる。その後、彼女のアルバム『レッキング・ボール』を電話で褒めてもらったときには、「一生それで幸せに生きていきていけると思った」とあった。

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ボブ・ディランなんて知らない

ディランといえば『くよくよするな』『風に吹かれて』くらいしか知らなかった。しかもピーター・ポール&マリーやマリーラフォレ、ジョーンバエズといった人のカバー曲で聴いたのが最初だった。その後、岡林や高石ともやや高田渡や友部正人といった人たちの歌を聴くようになって、ディランの名前は僕の中で大きくなっていった。彼がどんなにいろんな人に影響を与えたか、まわりから聴くたびにどんな人なのだろうと興味を持った。特に友部正人の歌に「♪ボブ・ディランなんて知らない  流氷は角度のない水になった」なんて曲だったか、歌にまで登場する。 そしてラジオの深夜番組ではじめて彼のもと歌『くよくよするな』『風に吹かれて』を聴いたのだった。すごいダミ声だったが、確かにつたわってくるものがあった。とくに『くよくよするな』は不安定な思春期の心を慰めるものがあった。テープに録って何度も何度も聴いた。そして音楽雑誌でみる彼の写真、たいがいは胸にあのハーモニカホルダをぶらさげていたり、へんな奇妙な帽子をかぶっていたり、四角いアゴが目立つりりしいハンサムでかっこ良かった。その後、サウンドがエレクトリックなほうに移ってから、ほとんど彼の曲を聴かなかった。まさに、「ボブ・ディランなんて知らない」だ「ディランII」はかろうじて聴いていたけれども!!

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Window


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ディランの曲だった

フリマが明日なのかと思っていたら勘違いで、実は来週だということが判明! なんどもなんども変更になり、疲れてしまった。

『追憶のハイウェイ61』という曲に惹かれて、調べてみたらボブ・ディランの曲だった。最初に聴いた曲はブルースを得意とするジョニー・ウィンターという人の曲で、演奏はギンギンのロック系。ギターのテクニックが素晴らしい。なんでもジミー・ヘンドリックスの影響を受けている人らしい。けどジミヘンと比べるとギターの音色が破壊的ではない。なので印象はといえば、派手なわりには爽やか系であるので、ちょっと中途半端はいなめない。10回くらい聴くと飽きてしまう。というわけで、本家のディランの『追憶のハイウェイ61』を借りて聞いてみた。
やはり本家である。ジョニー・ウィンターに比べるとグルーブ感はいまいちながら、あのダミ声でうなるねちっこい引っ張るようなサウンドというかしゃべりみたいな歌が魂をえぐる。ハイウェイをクルージングしてるといういうより、ブルースの魂のハイウェイをギターを弾きながら、ジョニー・ビッグッドしてるという感じ。わからないだろうな〜。とんとんと片足でバックしながらハイウェイを昨日に向かってねちっこく穴をうがってるとでもいおうか。アルバム最後の曲『廃墟の街』は、延々11分も聴かせ、とくにハーモニカが冴える素晴らしい曲だ。そのねっちこいフォークロック的なノリがデビュー当時の吉田拓郎を思い出させた。それで次には、『BLONDE ON BLONDE』を聴くことになるのだ。

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2007.04.01

スロウ・ボートには水丸

読みかけの村上春樹の初期短編集を読み終わって、もっと面白い本はないかな〜 なんて近くの書店に行ったら、チャンドラーの春樹訳があったので、早速購入。川の道端に咲いてる桜やハナニラ、そのほか名前を知らない花々が春欄間といった具合に咲いてる中を家に帰って来て、エミルー・ハリスやニルソンのCDを聴きながら、『中国行きのスロウ・ボート』の主人公が中国人の彼女に嘘をつかなければいけなかった哀しい理由について、ジュースにウィスキーをたらしたものを飲みながら考えながら、あちこちのブログの新着記事を読みながらこの記事をかいてる今です。そんな風に過ごしたくなるほど、哀しい事に打ちのめされるということもあるのだ。「人間ってなんて哀しいんだろう」。ある事をひたすらに隠すためにとる行動、くせ。もちろん理由があってのことなのだ。そんな日に、春樹の短編集、特に表題作や『午後の最後の芝生』はよく似合う。安西水丸の装丁のイラストはかっこいいけれど、スロウ・ボートにはアッテルノ? まあそこが水丸なのか。

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