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2005.11.28

渡の「ごあいさつ」トリビュートを聴いた

今年の最大のニュースは、なんといっても尊敬する高田渡さんが亡くなられた事だ。ずーっと彼の音楽を聴いて聴いて聴きまくっていると、いくらなんでもそれは飽きてくる。それでも、生前はライブへ行けば会えたし、違ったアレンジで生演奏や独特の毒舌も聴けた。そのうちまた、いつか新しいアルバムをだしてくれるだろう、なんて思っても今はそれもかなわなくなった。そんなことを感じていると、若い人たちがこんなアルバムをだしてくれた。あたらしい感性で新しい音楽で高田渡を聴く事ができる。こんなにうれしいことはない。今後また「系図」「石」のトリビュートが予定されているらしい。楽しみなことである。「系図」のトリビュートはもうすでに出たらしい。

j_goaisatsu


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2005.11.26

現代建築とファッションとデザイン

最近、リフォームや変わったお家拝見系のTV番組バヤリである。なんかひがみではないけれど半分嫉妬、半分興味深々といった感じで、番組を楽しんでいる。一見、大量生産、型にはまったレデイ・メイドのほうが経済的に優れて、我々シモジモの者には馴染みが良いように思えるのだが、どうもそうではないのではないのではないか? なんて感じさせてくれるところが、最近のトレンドな住宅の良い所だ。そして女性の建築家の登場は、生活者の立場に立った細かい気のきいた観点からのデザイン、今までにない新鮮な住空間として魅せてくれた。いままで男性の独壇場ではあったのだが、あまりにも経済的な論理のもとに造られていた住宅建築を建て主の元に引き戻してくれたという理由で画期的な事だと思う。まさに男性、女性の建築家を問わず、そういった職能の人にとっては今が、一番花開く時期なのかと思う。
しかし、そこには言葉のマジックがあるような気がする。デザインという立場から考えるならば、様々な厳しい条件を与えれたほうが実は簡単にデザインがしやすい。建築でいえば、たとえば敷地が狭い、縦長、隣家との境界が狭い、敷地が坂になっている、などの条件があった方が実はデザインがしやすいというか、必然的にそうならざるを得ないデザインになるのだ。そのマイナスな要素のクリエイターはどうやってそれを逆手にとってポジティブな要素に変えて行くのか? といったことがそのデザイン要素に与えられ、その分がデザインする側にとっては楽しみになる。それを、言葉の魔術によって、現代生活の欠点とトレンドな生活スタイルなどといったキーワードによって建て主に納得させてしまう、という魔法が一役買っている。といったら言い過ぎだろうか。
「ライフスタイル」なんて言葉によって祭りあげられた、「家」とは何ぞや。それはおそらくファッションの延長上にある。自分と他人を区別するモノして現代人は、ブランドの洋服や装飾品、乗る車、行きつけの店、その延長上に「家」が存在するようになって来た、といったところだろうか。先ほども、言ったようにデザインは条件を与えられたほど、実はデザインしやすい。この域を出て、そういった何の制約も何もないデザインこそ難しく、それを超えたデザインほど実はオリジナリティが高いと思っている。そんな建築ブームになるなら、手を叩いて歓迎したい。しかし現実は、本文があってタイトルがあるというようなデザインをすると、それはおかしいから変えてくれと言われる。映画でもいきなりストリーがはじまって、ある程度してからタイトルが出てくる「そんな感じにしたかった」と言葉を添えるとはじめて理解してくれたりするのだ。我々がそんなことを超えた建築家の自由なコンセプトによって建てられた光に浴するのはいつのことなのだろうか。

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2005.11.23

模型飛行機が最後の字幕に飛んでくる

これから観る人のために、ストーリーは書かないけど「Alwas 三丁目の夕日」を観て来た。昔、一時期ビッグコミック・オリジナルだったろうか、西岸良平さんのこの漫画に夢中になったことがあった。あのテイストそのままが映画になった。泣ける泣ける。泣かないようにぐっとこらえていた。純君、いい役やってるな〜。それにものすごく、演技が上手くなっている。憎いよ〜。それに、鈴木オートもなかなかいい味だしてる〜。自分が生まれた頃の東京だろうか。古き良き時代の精神を今に伝えたよい映画だったと思う。あれはすべてセットなのだろうか。だとしたら、相当お金がかかってるだろうな。気に入ったことを一つばらしておくことにする。冒頭に出てくる模型飛行機。あれが、最後の字幕の所に登場する演出がこころ憎い。う〜ん、「トイ・ストーリー」にもあんなサービスがあったな、なんて、よっぽど映画好きの人たちが作った映画なんだな、というのが伝わって来た。

それから、先日DVDで、ななんと、息子と一緒に「冷静と情熱の間」を観てしまった。あのシーンももちろん一緒にだ。犯罪かもしれない。でもあれもよかった。設定は1996年頃なんだけど、自分にとっては、1970年頃のように思われた。なぜかというと、自分も小田急線沿線に住んでたことがあって、映画にも梅が丘とかもしかして成城学園かな、あの辺の景色がでてきて、主人公たちがであった下北沢なんかも、1970年代の頃のように思い出されてしまったからだ。もちろんフイレンチェやミラノには行ったことがないのだけど、ドゥオモなんかはやはり何となくだけど70年代の美術の学生さんの憧れるような雰囲気がムンムン。ぼくのなかでは、ガロが歌った「花が散りはじめて 夕日が燃える頃〜」と歌う歌あれが頭の中を流れ続けた。それで、思ったのだけど、音楽もすばらしい。特に、クラシックギターの曲が至る所、流れて、あれが思いっきり泣かせる。セカチュウでもクラシックギターが効果的に使われてたけど、やはり「愛」とクラシックギターは最高の相性だと思う。みなさんもたっぷりと本格的恋愛にひたってみてはいかが? ですか。竹内豊君でしたっけ、あいつっものすごくかっこいいと思うんだけど、それはぼくだけなんでしょうか。

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2005.11.22

文字が消えていたので

修正したらしい。
上手くいったかな?
なにしろ文字が表示されないと
意味が通じない。
かれが言いたいことは
結構微妙なのだ。

「pota2.swf」をダウンロード

う〜ん、やっぱだめだな。

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2005.11.21

息子が作ったflash

息子がこんなもの作ってしまった。
わがMACが息子に占領されてしまった。

「pota.swf」をダウンロード

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2005.11.18

ふーらり、ふらふら、ポタリングシリーズvol.5 中野のゲルニカ

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普通、落書きは上手くない。上手くないところが、落書きの魅力なのだが、これは落書きを超えている。URLも書いてあったが、記録するのを忘れてしまった。


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2005.11.17

ふーらり、ふらふら、ポタリングシリーズvol.4 かわいい嫌われ者

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このひとは嫌われ者だが、かわいい。角帽をかぶっているところを観ると、汚いが頭がいいらしい。角が生えているんだけど、帽子もかぶっている。こんなかわいいものなら食べてしまいたい。


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2005.11.15

ふーらり、ふらふら、ポタリングシリーズvol.3 威嚇する薔薇

一本だけひょろ〜りと青空に伸びた薔薇。
空に映えて美しいのだれど、
その枝振りが何となく
威嚇してるみたい。
へんな薔薇であった。

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2005.11.14

ふ〜らり、ふらふら、ポタリングで見つけた変な物

というか、路上観察。
また息子とポタリングにでかけた。
あまりにも面白いので、
せがまれたのだ。
そして息子が変な
ものを見つけた。
あえてコメントは差し控えさせていただく。
皆さん、これって何ですか?
教えてくださ〜い。

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2005.11.13

「自由の女神」と「結(ゆい)」

『自由の女神』と『結』はどちらが新しいのだろうか。

青森県大畑村に『木野部海岸』というところがある。大畑村には昔、岩が適当に点在する美しい砂浜があった。かつて子供たちはそこで遊び、捕れる魚もその浜のおかげで潤い、静かで豊かな漁村の暮らしがそこにはあった。高度経済成長時代、イカ漁がその村の覇権を握った。イカ漁が暮らしをもっと良くしてくれるのではないかと村人たちは幻想を抱いた。そしてその覇権は、漁港をコンクリートで固め、大きな船が出入りできるように、深く掘ったり、港を整備した。それには飽き足らず、『木野部海岸』にコンクリートの構造物を造ったのであった。皮肉にも、港を新しくしはじめた頃から、イカ漁は振るはなくなり、船はイカを求め、遠くは外国まで遠征するようになった。そしていつのまにか村はさびれていた。そして村人たちは失ったものの大きさに気づいた。たった150メートルの海岸ではあるが、国の助成で造った建造物を壊し、元の美しい海岸に戻そうという運動が起こった。法律的な問題も乗り越えて、村人たちはたった150メートルであるが、かつての美しい『木野部海岸』を取り戻そう、と試みはじめたのであった。

時をおなじくして、ユングの集合無意識ではないが高度経済成長以来、大量生産、大量消費、そしてそのために製品のサイクルをわざと短くして物を売る、そんな社会に限界を感じ、新しい試みをはじめている人たちが沢山出て来た。

古い城よりりっぱな棚田の石組みの山口県、防府市。田んぼと林業を営んでいる人が紹介されていた。彼はかつて警察官をし、高度経済成長時代、一儲けしようとその警察官をやめ、レストラン経営をはじめたがまもなく倒産。そのときに、実家が持っていた田んぼや山林が荒れ果てているのに、気づき山や農作業の生活に入っていった。山に入って、木の枝や下草を刈るつらい毎日。そこで彼は考えた。飼っている牛6頭をその山林に放してみるとどうなるだろうか。すると牛は野山を駆け回り、下草をほとんど食べ尽くした。そして牛が落とした糞は山や農地を肥やしていった。牛そのもは、急な山などを駆け回るので、丈夫になり飼料など必要としなくても、長生きをし、丈夫な子供を沢山産む。しかも食べ尽くした下草の跡には毒性の強い「しきみ」が残る。そのしきみは仏前に供える花として出荷して20万の儲けになるという。自然との共生を試み、成功した例だ。その他、アイガモ農法とか、これに似たような試みが今、トレンドなのだ。

そして、自分が生まれた町の一つ山を越えた村、秋田県、上小阿仁村の話。マタギの里として知られる人口3千ちょっとの小さい、小さい過疎の村で、昔からの『結』という部落の共同体みたいな組織、それをもっと強固にして厳しい現実を乗り越え越えようとしてる人々が紹介されていた。村自体は、いくつかの町と合併の話があったらしいが、それを拒否したというのだ、番組は、そのときの心境などを村長さんにインタビューした。村長さんは語る。「村には、顔や名前が知らない人は一人としていない」それが合併したとなると「顔も名前も知らない人がたくさんできてしまう」。確かにそれは小さな、小さな過疎の村の裏側を観た最高の長所であり、そこに村のアイデンティテー、誇りを感じているのだ。かつて村にには秋田杉を加工する製材所が10数カ所あったという。外国から安い建材がどんどん輸入され、樹齢100年を超える秋田杉ではあるが、需要がめっきり少なくなり、今では製材所も3カ所しかなくなったという。そんな厳しい現実を村人たちは昔からある『結』という共同組織の仲間意識を更に強固にして乗り越えようと云うのだ。現実には、その100年以上も育っている秋田杉の宝の山を捨てないで、助け合って現実を乗り越え、守って行こうとする新しい運動なのだった。自然は財産なんだというマタギの伝統的な自然との共生を踏まえた考え方なのであった。そういう考えは一見、現代人が一時、夢見ていた「自由」の獲得とは逆行しているようにみえるが、実はそのような新しい潮流が世界的に巻き起こっているのだと評論家の内橋克人さんは云う。

以上、昨日やったNHKのETV特集「長ぐつの旅・菅原文太(時代に逆らう反骨の男たちを訪ねる3千キロの旅)」をまとめただけのこと。とても興味深い番組だったと思う。それに偶然総合でやっていた番組「ユリばあちゃんの岬」で、ユリばあちゃんが、知床岬の突端に座り、オホーツクの海を観ながら「ここには鹿が新しい命を育む姿や豊かな海や海岸の自然、恵み、なんでもある。だから他になにもいらない。友達だっていらない」といった言葉が重なりあってしょうがない。

「自由の女神」と「結(ゆい)」。この二つの言葉が、唐突ではあるが僕の頭の中にイメージとして浮き上がって来たのだった。

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2005.11.08

ポップアートと恋愛小説

第二次世界大戦がはじまって、芸術の舞台はパリからニューヨークへと移った。パリで活躍していたアーチストたちが次々、ニューヨークへと移住しはじめたからだ。かつて風景画といえば、パリの裏町か郊外の田園風景であった。しかしニューヨークに移り住んだ彼らにとってそれは摩天楼の風景であり。スーパーマーケットに並ぶキャンベルスープの缶であり、ミッキーマウスが登場するコッミクであったりそして、マリリンモンローが登場する映画であった。彼らは、そんな風景を描きはじめた。そして奇妙な絵画が出来上がった。はたしてそうやって出来た絵は絵であるのか? 誰も彼も問いはじめた。いったい絵画ってなに? とこうなる。絵を描く意味が急にクローズアップされた。そしてそれはおそらく、絵画の要素のひとつ一つを突き詰めて行く方向に向かったのだと思う。例えば、フランク・ステラに代表されるようなミニマルアートに。あるいはジャクスン・ポロックに代表されるような、抽象表現主義に。そのほかにもあるかもしれない。色や形だけの面白さを追求し、その他の意味が介入することを拒絶するとどうなるのか? 絵画は実験をやめなかった。それがコップの中の嵐と呼ばれるような、行き詰まりを呈した。描く楽しさはどこへいった? そこから本当の意味の絵画は? という具合に、今まさにこれからこそが絵画にとって新しいステージなるのだと思われる。

それをふまえて、現代の恋愛小説のことを考えると、それと似通っていて非常にわかりやすいのではないかと思ったのである。ごひいきにしているある人が今、短編恋愛小説を毎日書いている。最近、それを読ませてもらっている。時代とともにもちろん恋愛のスタイルも変わる。かつて田園風家を描いていた画家たちがポップアートの作家たちのように、彼らにとっての恋愛を描くようになった。当たり前だけど。でもそれは当然、ポップアートの作家たちのように「それははたして小説なのか? 文学なのか?」と批評にさらされることになるのだ。確かに新しい、例えば彼女がだと思っていた人が実は人妻だったり。あるいは女性専用車両で見つけた同性愛とか。これからの恋愛の新しいスタイルはいくらでもある。

ちょっと、考えてることと、書くことがずれてきそうなので、この続きは、もうちょっと考えてから書くことにする。

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2005.11.07

あんまり空が青いので

むかし観た映画のことが思い出された。『草原の輝き』。ナタリー・ウッドが出るやつ。あんまり空が青く高いとむなしくならないか? 彼女は映画の中で自殺する。命が吸い込まれて行くように、空は高く青く輝いていた。そしてアイツもちょっと見つめられないくらい、まぶしく輝いているのだった。MISS-TOMOさん風に書いてみました。

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雨上がりの朝と月曜日は

昔、カーペンターズの曲に『雨の日と月曜日は』という曲があった。そんな日は僕も嫌いだ。ただでさえ会社へ行きたくない症候群なのに、雨が降っているというのはどうもやりきれない。しかも永山則夫ではないが、11月の雨は冷たい。今日はしかし、雨が上がって、輝く青空だった。そんな月曜日は微妙。雨上がりの青空は好きだ。だが月曜日は嫌いだ。ここのところ、朝の青空はまぶしいくらいに輝いている。さすが秋だと思う。空気が冷たく澄んでいるせいだと思う。そんな秋空の朝に、路面が濡れているにもかかわらず、空は奇麗に澄み渡っている。妙に新鮮な気持ち。会社へ行きたくない気持ちと、月曜日の緊張感とさわやかな青空と濡れた路面。そんな月曜日の微妙な朝の空模様と僕の心模様。こんな日は美しい女性のことを思って過ごしたい。な〜んちゃって。

これがちょっと、後ろ向きになると、会社へ行かないで、どっか遊びに行きたくなるのだ。

ところでカーペンターズは嫌いだ。高校時代、友人の家でカーペンターズを聴きながら昼寝して、うなされてから嫌いになった。

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2005.11.06

ポタリング

仕事ばかりしていて、いつの間にか秋が来ていた。ストレス発散に、息子と目的のない自転車散歩に出かけてみた。息子の提案だったのだ。秋の空と枯れた木や落ち葉。人々の庭先に咲く秋の花々を眺めながら、ゆっくりと自転車を漕いでいると、心が和んで来た。この辺は都会ではあるが比較的緑が多いということに、改めて気づいた。と突然目の前に、厩舎が現れた。挨拶すると馬のダルちゃんとボーちゃんが首を振って挨拶を返してくれた。そしていつのまにか、広い池についた。息子とボートに乗って、ちょっと遊んだ。くつろいだ一日だった。
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