« 2004年6月 | トップページ | 2004年8月 »

2004.07.29

今、無性に聞きたい歌、そして歌いたい歌。

今むしょうに聴きたい歌。
そして歌いたい歌。
サンフランシスコ湾ブルース。
クラプトン、PPM、ブラザースフォーのではなく、
武蔵野タンポポ団のヤツ。
そしていっしょにあるこよ吉祥寺の街をネっていうヤツ。

今、好きなイラストレーター。
沢田としき。
K2にいたんだよな〜。
大塚まさじのジャケットやりやがって。
「一輪の花」あれにはまいったよ。

今むしょうに読みたいたい本。
誰かが感想書いてた、
チャールズ・ブコウスキーの
『ありきたりの狂気の物語』

店員が在庫係よりも聡明だということなどありえるだろうか?
確かに店員のほうがいい服を着ている。
自分たちがとても重要な仕事を任されていると思い込んでいることが、
わたしの鼻についてならなかった。
自分が店員だったとしたら、
わたしも同じように思うのだろうか。チャールズ・ブコウスキー
「くそったれ!少年時代」から

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004.07.24

『あらしのよるに』シリーズを読んで

 だいぶ前、「本日は晴天なり・・・!?」さんの記事に『あらしのよるに』という本が紹介されていた。夏休みに入って息子と一緒に図書館に行く機会があって、子どもの本のコーナーをいろいろ覗いていた。素敵イラストが載ってる絵本などがあって結構楽しい。そして『あらしのよるに』という本を見つけ、借りて早速読んでみた。あらしのよるに、避難したヤギの真っ暗な小屋にオオカミがまた避難してくる。おたがいその正体がわからないまま会話がはずみお友達になってしまう。そして次の日に『あらしのよるに』という合い言葉をきめて再開を約束する。話はここで終わっていた。もし続きがあるならその後二人はどうなるだろう。なんかはらはら気になる終わり方だった。そして息子にその話をしたところ、まだ続きはあるのだという。息子はもうすでに全部読んでいたらしい。そして、その続編、『あるはれたひに』『くものきれまに』『きりのなかで』『どしゃぶりのひに』『ふぶきのあした』というふうに、シリーズ化されていることがわかった。それでまたあわてて図書館にいって、『あるはれたひ』と『ふぶきのあした』を借りてきた。本当は全部借りてきたかったのだが、人気があるらしくこの2冊しかなかった。
 絵の方は一見、下手に描いてあるのだがそれがまた味があってなかなかいい。特に『あるはれたひ』の表紙を見ればわかるのだが決して下手ではないのである。つまりあえて下手に描いた「ヘタウマ」だ。そしその扉のモノクロの絵もすごい、夜空が爆発している。話の方はとうとう、お互いの正体を知ってびっくりする。「おいらだってそうっすよ。おひるごはんといっしょにおひるごはんをたべるようなもんすから」というオオカミの発言は、その当惑を面白く表現していて笑ってしまう。しかもオオカミの語り口、「そうっすよ」とか「たんすから」とうのもまた微笑ましいし、それがまた後から泣かせる伏線にもなっているのだ。オオカミにとってはエサとしてたえず食べてしまいたいという誘惑に駆られながらも、友情をはぐくむためいわばデイトなのだろうかお弁当を食べに岩山まででかけるのであった。ヤギはヤギで食べられてしまうのではないかという恐れをいだきつつも、友達を疑ってはいけいと思い友情を深めていく。そしてオオカミの食べてしまいたい誘惑は頂点に達したかに見えたその瞬間、「こ、こんど、いつ あうっす?」いいですね。友情は愛情へと変わりはじめるのだろうか? そして次の巻へ。
 その次は『くものきれまに』なのだが、いきなり最後の『ふぶきのあした』を読んでしまった。その間話しは結構進んだみたいだ。オオカミの名は「ガブ」ヤギの名は「メイ」になっていた。ガブとメイは秘密の友達になったらしい。でもその秘密が森中にばれてしまい、いられなくなってオオカミ仲間から二人は追われるハメになる。そして「みどりのもり」という理想の土地をめざして二人はふぶきのなかを進んでいった。が仲間との格闘の末ガブはなだれに巻き込まれてしまう。
 ヤギとオオカミの友情物語なのだが、見方を変えると禁断の愛を描いた恋愛小説のようにもとれる。3巻目の『くものきれまに』を読んでいないので、何とも言えないがそうとれなくもない。自分が感じたのは実はインターネットの世界に似ている話だなと思ったことだった。あらしのよる、それは人それぞれ現実というあらしのなかで避難小屋を求めている。そしてある人はインターネットに理解し合える友達を求め避難する。何を隠そうそういう自分がそうなのだ。そして顔も知らない相手とさまざまな会話をする。そして友情を深め、癒し癒される。いままで知らなかったいろんな人や考え方に出会いまた目を開かされそしてまた現実に帰っていく勇気をもらう。ガブやメイのように、そのなかでいろんな物語が展開するに違いない。そしてやはり最後は涙なくしては読めないのである。
木村裕一=作  あべ弘士=絵 ちいさな絵童話

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2004.07.23

The water is wide について

melma!blog [クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)]さんが僕の投稿に返事をくれた。
五つの赤い風船の青木まり子さんのライブにいったことがあって、この曲をはじめて聞いた。しびれた。さらに中川イサトさんの名人級のギターも。質問の英語の訳を載せてくれた。どうもありがとう。しかもディランもこの歌を歌ってたなんて、知らなかった。元々アメリカのフォークソングはアイルランドの民謡がルーツだと聞いていた。この曲とそれから知っているのは、シャロン・シャノンのアコーディオンくらいか。もっとアイルランドの音楽のことを知りたい。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2004.07.21

夏の下北

洗面器いっぱいの涙の海をクロールすれば夏の下北

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2004.07.17

戦争と恋

戦争はこうして起きる エゴイズムと気づく恋に誰も笑えず(高田渉)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.07.15

まっぷたつの子爵3—善性と悪性とプラスとマイナスと—

 以前、『まっぷたつの子爵』の感想をかいた。悪い子爵と良い子爵、一人の子爵がまっぷたつに別れてしまうというお話だ。そして僕はこの両方とも必要なのだということを書いた。そして、読んだ心理学の本に、そのことに関連しているのではないかということが書かれていた。
 コップに水が半分あるとき、「まだ半分もある」と思うのがプラス思考であり、「もう半分しかない」と考えるのがマイナス思考だ。であるが、仮に自分が砂漠に一人残されてしまったときどう思うか。いつもプラス思考でいかないといけないと思って、「まだ半分も水がある」と認識してはいけないのだそうだ。そうゆう状況の場合は「もう半分しかない」と思う方が正解らしい。ポジティブ思考という風潮は人生の片面を強調しているにすぎないのだと。たとえば、良い子爵だけをみるということ。それはそれで、プラス思考にたったほうが楽しいし、いろんな局面を乗り越えられることもある。しかし、だからといってそれ以外の考え方を切り捨てるのはそれこそマイナスなのだと、その本はいっている。「リフレーミングは、ネガティブな見方をポジティブなものにすることを狙いとするけれども、それは単に慰めをこじつけるものではない。その本質は、見えなくなっているもの、見過ごされているものを、いかに見いだしていくかということにある。それはきはめてクリエイティブな作業であり、私たちがそこそこ快適に生きていく上での大事な知恵なのである」とあった。
 だから、善性と悪性、プラスとマイナス。どちらの考え方もありとする、そうした柔軟な考え方こそが、今の時代に求められているのではないだろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.07.14

するって〜となにかい

「するって〜となにかい、黒人は愛の歌を歌っちゃいけねーとでもいうのかい?」こんな気持ちで、ラングストンヒューズはこの愛の歌『失業手当』を歌ったに違いない。底辺にあるもの、きたないもの、よわいもの、名もないもの、道ばたの草、なんの変哲もない石ころ。そんなものにも愛を歌う権利はある。
 そういえば手塚治虫のマンガで『アディオス・ノーチェス』というのがあった。メキシコで生活する日本人の主人公の少年がある日馬に乗って遠出したときに、崖から落ちて足をくじいて動けなくなった。何日も動けないで喉が渇く彼を助けたのはサボテンだった。夜になると話しかけてくるそのサボテンに彼はノーチェス(夜)と名をつけた。サボテンは女性の姿になって自分の水分を与えつづけて、助けがくるまでそうやって彼を支えていた。そしてその後家族は日本へ帰る。父親は窓際族、主人公も学校でいじめにあう。そんなときに主人公にノーチェスの声が聞こえてくる。はるか遠いメキシコから考えられるあらゆる手段をつかいそのサボテンは歩けもしないのに主人公のもとにやって来るのだった。
 これは植物にも感情や愛はあるのだといのがテーマになっている。誰も見向きもしない道ばたに生えているただの草にも人を愛する気持ちはあるのだ。ましてやどんな職業に就いていようが、どんな家に住んでいようが人にもまた人を愛する気持ちはあるし、その重さは変わらない。地方の片隅で生活しいればこそできる愛のうたもある。
(↑う〜ん。なにをいおうとしてたんだっけ? 失敗。でもここまで考えたということで残すことにする。もうすこしあたためたらまとまるかもしれない。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.07.13

門外漢の『盗賊の歌』に想う─アンドレス・セゴビアの場合─

 こんなに暑い昼が終わり、夕焼けがあたりを染めはじめる。紺色の闇と一緒に涼しいさわやかな風が、星明かりによって照らされた草原の草草を震わせる。あんなにも騒いでいた心を静めるのはカタロニア民謡だ。夜空にはめこまれた宝石から降ってくるような、ギターの優しい音の数々。目をつぶってみる。まだ見ぬ魂のふるさとを放浪する盗賊たち。日中のほこりや汗にまみれた体を大地に横たえれば、木々の間から月の光は降ってくる。眠っているその盗賊の横には夜のものたちの気配。そして、夜露。毛布にくるまった鄙びたメロディ。『聖母の御子』『アメリアの遺言』『商人の娘』『盗賊の歌』がみんなそれぞれ、暑い火照った体や心を鎮める。そうやって今日の日の喜びを数えながら、眠りにつくとしよう。朝がくるまでに。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2004.07.12

あっ

「短歌を作るために、何か感性をみがく工夫をしてますか?」と俵万智さんはよく質問されるそうだ。その答えは「短歌を作ること、そのこと自体が感性をみがくトレーニングになってるように思います。忙しい毎日のなかでもし短歌を作ってなかったら、「あっ」と思ったことがあってもそのまま通り過ぎてしまうだろう。「あっ」と思ったことを思いっぱなしにしないで、立ち止まって見つめる時間を持つ。それが、短歌を詠むことだ」といっている。短歌にかぎらず、「あっ」と思うことがなくなったら表現はなくなる。その「あっ」とい瞬間をつかまえる目をもち、さらにそれを形として表現する。そんな日々でありたい。格闘しながらも。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2004.07.10

「ゾンビの館」オープン

息子が無料のblogをはじめた。
「ゾンビの館」という。
blogデビューです。
出来たっばかしで、まだ何もありませんが、
よろくしね。
小学4年生だよ〜ん。男の子だよう〜ん。
ゾンビの館

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2004.07.09

A君

 会社に社長の友人の息子A君が遊びに来た。と言うか、遊びに来させられた。A君は中学を卒業して高校へは行かないでアルバイトしている。親元からなんだけど、それで社長の友人であるA君のお父さんが心配されて、社長のもとへ来させたというわけだ。社長はもと牧師。というわけで、説教みたいな説教でないような話がA君を中心に、会社の同僚も含め輪が広がった。A君はヤンキーではない。反対に素直な心を持った十七歳だ。彼がいうには、ただ勉強が嫌いだということで、学校へ行かないでアルバイトしているという。そこでみんながそれについて勝手にいろんなことを言うと言うスタイルで、話の輪が広がった。話は最初は山田洋次監督の『学校1』『学校4』という映画の話からはじまった。今の定時制は本当に学ぶことを真剣に考えている人しか行かない。意識が高い。学ぶという喜びを知りながら学んでいる。人それぞれレベルは違う。ある人は肉親から来た手紙を読みたいため。また自分でその肉親に返事を書きたいため、学ぶ。そして生まれてはじめて手紙を書けたことに無情の喜びを感じる。本来学ぶと言うことはそういうことだ、と言う話から。なぜ勉強しなくてはいけないのか? ピーター・フランクルの生きることの意味の話とか。死後どうなってるのか? 宇宙の果てはあるのか? 我思う故に我有りとか。みんな勝手にいろんなことを話した。もちろんA君も自分の言いたいことを話した。説教というよりは、みんなそれぞれが普段どんなことを考えているのかという発見の場でもあった。時間はあっという間に過ぎ、仕事半ば中断した。アルコールは入っていない。楽しかった。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2004.07.08

おしゃれ発見

 『おしゃれ工房』7月号、NHK出版を図書館で少しぱらぱらめくっていたら、素敵な切り絵を発見! アグネータ・フロックの植物や動物や寓話の世界を切り絵にしたものだ。なんでも詩を読んでそのイメージを切り絵にしたものが紹介されていた。スウェーデンのテキスタイル・デザイナーらしい。明日はその本を購入する予定だ。久々に絵の世界の刺激が見つかった。うれしい。フォークロアっていう感じ。それから、『日経woman』を見た。レイアウトに感心した。こんな素敵にレイアウトしやがって、ちくしょう。誰がやったのか知らないが拍手を送りたい。今、雑誌は頑張っている。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004.07.07

七夕の頃の思い出

 七夕は結婚記念日だ。何年前だった忘れたが、やはりこの日は忘れない。特に何かをするわけではないけど、蒸し暑い日だったなということは思い出す。今日はクリームあんみつでお祝いをした(超地味)。東京では7月7日に祝うけれど、天気が良くて星が見えた日はあまりないように思う。
 田舎では8月7日に祝う。その頃はもちろん夏休みだ。小学生の頃、友達と何人かで竹の生えてる屋敷に忍び込んで、竹を取ってきた。道具は少年ナイフ(東京では肥後の神)。普通の刃とノコギリの刃がついて板と思う。そのノコギリの方でギコギコ切って、必死になって小ぶりの笹を取った。しかも隠れてやるのだから、結構ドキドキする。時にはあせって、手を切って、血が飛び散るときもあった。そんなときは血止め草を探して嘗めて貼った。そうやって家に帰って来て、友達と短冊を作って飾り付けた。それでもう一つの楽しみは、竹でっぽうを作ることであった。
 残った竹をやはり少年ナイフで切って筒と打つ方の筒を切る。打つ方の筒の片方には節を一つ付け置く。その節が行き止まりになるように心棒を入れる。そしてもう一つの筒の長さより少し短いくらいで切る。弾はなんという名前の植物かは知らないが仁丹よりふた周りぐらい大きい実を使う。そんなのがそこら辺の家の垣根には沢山なっていた。いろんな長さの作った。人よりも長いのが良くて、そんなのを作って自慢したり、反対にすごく短いのを作ったり。短いのはいい音がする。それから、灯籠なんかもつくったりしたな〜。そのときは絵がうまくかけなかったな〜。いまも上手くないが。そんなことを思い出した。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004.07.06

フォークダンスの思い出

 高校2年の学園祭でフォークダンスがあった。本番の前に練習をしようと生徒会が呼びかけ、1週間前からリハーサルをやっていた。当時、1年上の先輩でブラスバンド部員で朝礼とかでクラリネットを吹く人が気になっていた。廊下とかすれ違うと密かにその人のことを見ていたと思う。でもその人も気付いていたかもしれない。自分は2年生だったけど中学浪人していたので、普通なら同い年だ。その人が輪の中で踊っていた。これはもう自分も踊るしかあるまいと思った。恥ずかしかったが、思い切って輪の中に参加した。だんだんその人が近づくに連れて心臓がドキドキした。そしてそれが頂点にさしかかろうというその時、一人、前で時間切れになってしまった。「あ〜何と言うこと」と思ったが、次の日も挑戦。また同じように回った。そのとき僕はもうその人しか見ていなかったと思う。やはりだんだん近づいて来ると胸が高鳴った。と同時に体が固くなってきた。そしてとうとうその瞬間がやって来た。うれしかった。そしてその手の感触。なんとなくコロコロした感じ。けっしてその人は太っていた訳ではない。むしろスリムな方だったと思う。そしてその瞬間、その人は「クスッ」と低い声でかすかに笑ったのだ。どういう意味だったのだろう。いまでも永遠に謎だ。その後、その人は当たり前だけど自分より1年早くその高校を卒業していった。でも今でもその人の名前はちゃんと覚えている。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

結婚はオプション

人生に結婚というオプションをつけるにはあといくら必要?(高田小百合)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.07.05

門外漢のアンサンブルに想う—ライ・クーダー&キューバン・ミュージシャンズの場合

 まずはいきなり、ライのリードで入る。そしてベースとドラムがしっかりとしたリズムを刻む。イブライム・フェレールの草原を渡る伸びやかなボーカル、そして鄙びたハーモニックなコーラス。「ハーイイイヤイヤ」。その間にもマラカスが2倍にも4倍にもノリノリだ。ボーカルの間にはライのリードギターとそれを追いかけるようなコンパイ・セグンドのツインリード・ギター。次のメロディを期待してると、「すこーん・すこーん」となんて言う楽器か知らないが、レゲエのあの「スコーン」と言う音が間の抜けた感じで更に盛り上げる。間奏は消音装置をつけたコルネットかトランペットがブルージーなテイスト。リードギターの音をじっと聞いてると、途中で「スコーン・スコーン」の裏打ちドラムカンドラムに気をとられる。そうかと思うと転がるようなマラカス、またリードが音を跳ねつま弾く。なんの楽器か知らないがその間にも転がるように音は流れていく。僕のレイアウトも本文と見出しとイラストと写真のアンサンブルはこのように正しくあってくれと祈るのみだ。しかも詩はあくまで美しい。

たとえば

『私の花に何をした?』

ある木の幹に、若い娘が
喜びにあふれ自分の名前を彫った
芯まで心を動かされた木は
一輪の花を娘のために落とした

私は木、悲しく心動かされた木
おまえは私の皮に傷をつけた娘
おまえの素敵な名前をいつまでも大切にしよう
そしておまえは、私の哀れな花に何をした?

このアルバム「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」
なかでも特に気に入ったのは、
2曲目「デ・カミーノ・ア・ラ・ベレーダ(道を踏み外すな)」
と6曲目「イ・トゥ・ケ・アス・エチョ(私の花に何をした?)」
と10曲目「アモール・デ・ロカ・フベントゥッド(青春時代のいい加減な愛)」だ。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2004.07.04

クリストフの場合

 こんな暑い日の晩は、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を思い出す。
 クリストフは小さい頃からすでに宮廷の作曲家でありピアノ演奏家であった。それで彼は自惚れていた。彼にはゴットフリートという名の叔父さんがいた。叔父さんはヨーロッパの各地を小間物を売り歩く行商人だ。そして年一回、クリストフの住んでる家に帰ってくるのだった。クリストフは最初、叔父さんを馬鹿にしていたが、自分の作った曲を自慢げに叔父さんに聞かせるのだった。しかし、叔父さんは、意に反して「駄目だ」という。やけになってもっとつくって聴かせると「尚いけない」という。悔しいと思っていると、ゴットフリート叔父さんが歌う歌を聴く。それはクリストフにとって、今まで聴いたことのない全く知らない歌であった。そしてその歌に衝撃を受ける。それは叔父さんが行商で覚えたヨーロッパ各地で庶民に歌われている民謡(フォークソング)だった。叔父さんはある暑い日の晩、クリストフを近くの草原に誘う。二人して、草原に寝ころび月や星を瞬くのをみつめる。そして、「風が木々をこする音、虫がささやく音、動物たちが呟く声を聴け。クリストフ、他に何を歌う必要があるだろうか?」と諭す。それは、クリストフが真の音楽に目覚める瞬間だった。
 それは、やはりこんな晩であったろうか? 高校時代の夏休み、何処へもゆかずこの長編を読んだことが懐かしい。その他、思い出すシーンはたくさんあるが、今その本は手元にない。思い出しながら書いたので、詳細は違うかもしれない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

辻仁成『愛はプライドより強く』を読む

「考えることが僕の全ての始まりだだから」というこの言葉がこの小説のキーワードか、何回も登場する。
かつて同じレコード会社で働いていた二人、結婚するにはどちらかが会社をやめなければいけない。
そして、主人公ナオトは自分よりも会社に貢献している彼女・ナナのことを考え、小説を書くということで会社を辞め同棲生活にはいるが、結婚にはなかなかいたらない、それどころかだんだん二人の仲は微妙になってくるのだった。小説を書くと言うことはつらいことだ。でもそれはおそらくナオトにとっては逃げられない宿命だったに違いない。作者あとがきに、「恋愛をするには力がいる。全部の力を振り絞って向かい合わないと、本当の恋も手に入りにくい。知人のSは、一人の女性を口説くために、ホノルルマラソンを完走した。中略…ゴールで待つ彼女が、倒れそうになりながら走って来る彼の姿を見てどう感じたかはぜひ想像していただきたい。そんなふうに愛される女性は幸せだと僕は思った。たった一人の女性に向かって、ひたむきにラブソングを歌うように、僕はこの恋愛小説を書いた」とあった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.07.01

江戸川

江戸川にトラックバックリンクする結婚してる君のペチャパイ(高田渉)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

ペチャパイ

江戸川でトラックバックリンクする結婚してる君のペチャパイ(高田渉)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

キーを打つ

お互いに結婚してる身であるが何かを求めキーを打ち合う(高田渉)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

歌う

この歌はフィクションですと注釈をつけて結婚のことをうたう(高田渉)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2004年6月 | トップページ | 2004年8月 »