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2004.04.22

「旅」寺山流

前向き思考だとばかり思ってた寺山は、実は「——への旅」ではなく「——からの旅」をしていたと言うのだ。いろんなもの、家から、母親から、故郷から、そして学校からも逃げた。「ゆくところ」などは、どこだっていいのだ。人さえいれば、出会いはある。人と人の出会いから、人と風景のとの出会い、人と言語の出会いまで、限りなく生成されてゆくものだからである。と彼は言っている。そして旅は変身の機会だとも言っている。旅館の宿帳に、偽名を書くときの、(あるいは二人で行って、夫婦でもないのに同じ姓を書くときの)言いあらわしがたいようなたのしみは、旅の虚構性を裏付けている。と言っている。そして、旅の開放感は、一言でいえば自分の住所、氏名からの開放感である、と。だとすると、こうやって偽りの名前を使って、背伸びをしてるような事を書いてる僕もやはり、旅をしているといえるのだろうか? しかも「——への旅」ではなくいろんなものから逃げるために。でも、それが人生の現実の一部であることは否定できない。そして彼は、いつも最後にこう結ぶのだ。

花に嵐のたとえもあるさ
さよならだけが
人生だ

彼は帰るところ、帰るべきところを自ら捨てた。
そして、さらに「ふるさとは捨てて来てこそ思うもの」だと言う。
そして、線路の上で生まれた。とうそぶき、彼の人生を再構築する。
逃走。それは、家だけでなく、日常的な現実からの逃走、
自分自身からの脱出。
こう考えるならば、
それは単なる後ろ向き思考ではなくなる。

詩人のラングストン・ヒューズは、

どっかへ 走っていく 汽車の
七十五セント ぶんの 切符を くだせい
ね どっかへ 走ってく 汽車の
七十五セント ぶんの 切符を くだせい ってんだ

とうたった
75せんとしか持っていなかったら、それでいけるところまで行けばいいのであり、それが彼の「旅だち」というものだ、という訳である。

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