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2004.02.26

谷と言えばやはり峠だろうか?

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「峠」   真壁 仁

峠は決定をしいるところだ。
峠には訣別のためのあかるい憂愁がながれている。
峠路をのぼりつめたものは
のしかかってくる天碧に身をさらし
やがてそれを背にする。
風景はそこで綴じあっているが
ひとつをうしなうことなしに
別個の風景にはいってゆけない。
大きな喪失にたえてのみ
あたらしい世界がひらける。
峠にたつとき
すぎ来しみちはなつかしく
ひらけくるみちはたのしい。
みちはこたえない。
みちはかぎりなくさそうばかりだ。
峠のうえの空はあこがれのようにあまい。
たとえ行手がきまっていても
ひとはそこで
ひとつの世界にわかれねばならぬ。
そのおもいをうずめるため
たびびとはゆっくり小便をしたり
摘みくさをしたり
たばこをくゆらしたりして
見えるかぎりの風景を眼におさめる。

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2004.02.25

空からくるもの

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こんな詩をみつけた。

谷    鳥見迅彦

もし下が深い谷でなかったら
こんなに両足がすくんでしまいはしないだろう。
自分が人間でなかったら
こんなに魂までひきつってしまいはしないだろう。
抱き岩に抱きついたまま
ながいながい時間がたつ
黒くてかたい鉱物なんぞにすがりついて
じっとしている自分のやわらかい肉があわれだ。
手をはなせば
すなわち落ちる、
すなわち滅。
すごい物理だ。
恐怖の
そよかぜ。
欲望の
ほのお。
またしても天に助けを呼ぶ。
そして自分の不信におどろき、
自分をさげすみながら
けれどもいやしく助けをよぶ。
もし下が深い谷でなかったら
自分が人間でなかったら
こんなはずかしい命乞いを
こんな醜いかっこうで、することはないだろう。

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2004.02.24

6弦のアンサンブル

段、クラシックはあまり聴かない。特に交響曲などは大げさすぎるような気がして、なんとなく難解で退屈だ。でもギター曲だけは別だ。悲しい音色が、僕にも解る範囲で適度に複雑に絡み合うところがいい。6弦(10弦というのもあるが)だけのアンサンブルとでも言おうか、つつましく、密かで、豊で、悲しく、シンプルで情熱的だ。

『禁じられた遊び』や『アルハンブラ宮殿の思い出』はかなり前から知ってたけど、ギター音楽をよく聴くようになったのは、NHK教育TVの「ギター講座」を見るようになってからだと思う。当時「ギター講座」の先生は荘村清志氏が先生をしていた。背が高く結構ハンサムで教えるのも上手かった。その次の先生は渡辺範彦氏。申し訳ないけど彼は見掛けもあまり良くないし、教えるのもどちらかといえば下手。でも一人でギターを手にすると別人の様にうっとりする素晴らしい演奏をする。その変化が面白かった。その次の小原聖子氏は演奏するときの口のモグモグが印象的。あのモグモグに心を込めているのがわかる。誰かが言っていた、「涎を垂らしながら演奏する先生もいるらしい」と。何となくわかる気がする。とにかく、それぞれみんな個性的な先生だったと思う。僕はその番組の中で『モーツァルトの主題による変奏曲』を聴いて、引き込まれてしまったのだ。

『モーツァルトの主題による変奏曲』を聞くとき僕は、ロマン・ロランの『ジャンクリストフ』の物語にあてはめて聴く。それはその本を読むことと、NHKの「ギター講座」を見ることが同時進行していたためだと思う。一つの主題が様々にすこしずつ変化してゆく様が具体的にジャンクリストフが散歩したり走ったり立ち止まったり、あるいは喜んだり悲しんだり、苦しんだり、彼の人生模様を音でイメージ出来たのが面白かった。

それから、『盗賊の唄』や『ラグリマ』『スペイン舞曲』『アルボラーダ』『ショーロ』などの曲を知った。失恋したときは、ふとんくるまってギター曲ばかり聴いていた。そして、ブラジルにも素晴らしいギーター音楽があることも知った。特に『ショーロ』はここ何年も聞いていないけども、最近また聞きたくてしょうがない。なかなか図書館で見つけられないのだ。

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2004.02.22

貘さんを知っていますか?

日NHKのTVで 「貘さんを知っていますか?」 という番組を見た。 貘さんは大好きな沖縄生まれの詩人で、 これまた大好きな高田渡や佐渡山豊も出演していた。 そこで改めて自分も「鮪に鰯」を少し語りたいと思う。

僕の大好きな詩
『鮪に鰯』
山之口貘

の刺身が食いたくなったと 人間みたいなことを女房が言った 言われてみるとつい僕も人間めいて 鮪の刺身を夢見かけるのだが 死んでも良ければ勝手に食えと 僕は腹立ちまぎれに女房に言った 女房はプイと横に向いてしまったのだが 女房も亭主もお互いに鮪なのであって 地球の上はみんな鮪なのだ 鮪は原爆を憎みまた水爆には脅かされて 腹立ちまぎれに 腹立ちまぎれに 腹立ちまぎれに現代を生きているのだ ある日僕は食膳を覗いて ビキニの灰を被っていると言うと 女房は箸を逆さに 逆さに持ちかえると 焦げた鰯の 焦げた鰯のその頭をこづいて 火鉢の灰だとつぶやいた

ぜ「女房も亭主もお互いに鮪」なのだろうか? そしてなぜ「地球の上はみんな鮪」なのだろうか? 詩人は、突然地球上の生き物や人類すべてが鮪なのだと宣言する。ここまでは一言も「核」という言葉を使っていない。そこではじめて「鮪は原爆を憎み…」と出てきて、はは〜ん。となる。心憎いばかりである。詩人は、一つの詩を作るのに80回という、おびただしい推敲をしていたらしい。

20世紀は戦争の世紀、大量殺戮の世紀だと言われた。その最も脅威に感じられたものは核戦争だろう。そして人類は今世紀にもなおその問題を残している。一方には最強の武器で世界を支配してやろうという権力者のイメージがあり、もう一方には支配される側、あるいはそれらの権力闘争にいつも巻き込まれてしまう無力な市民、特に「女房と亭主」に代表される生活者・民衆のイメージがある。その対比の見事さ。そしてそんなシリアスな問題さえも漫才にしてしまう庶民の生活力、たくましさ。そんな存在への詩人の暖かい眼差しを感じる。

近では9歳になる息子が小学校で「鮪の刺身が食いたくなったと人間みたいなことを女房がいった」と歌っている。

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2004.02.12

楽器はなにもない

歌は僕にとって自分一人だけのコンサートだ。
歌うのも自分、聞くのも自分。
楽器はなにもない。
通勤の合間、仕事へ向かうとき、
仕事から帰るとき、散歩するとき、
むなしい気もするが、僕は歌手じゃないので、
それでも充分だ。
時には自分の人生に重ね合わせて、
涙ながらに歌うこともある。

syafu

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たましいの交差点

本の有機体的曲線
二つのたましいの交差点
出会いの宿命的な悲しさは
刹那の爆発だ
限りなく幼い透明な爆発だ
散らせ、今ひとときの火花を
またそれぞれの軌道を描かなければならないのだから
君の明るさのすべてをもらって!

syafu

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勝利の余韻

愴的な対比の出現
思い出の唐突さ
唐突の無責任
俗なるものとのあくなき闘いは
侵略されるはずなのだろうか
勝利の余韻に思い出の唐突さは
まさに自らを傷つける
ああまたあの苦しさ
聖なる花をなくしても
残るものは透明な自分か?

syafu

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葬られた孤独

中をあわせた月夜の影に
葬られた孤独は
創造の意欲をかきたてよと
こんなにも迫りくる
朋友との会話の断片を
消滅させる群島のまっただ中に
釘をうち続けるのは
我らの仲間
堕落したこの真昼の情事を
にぎりめしを貪るがごとく
飲み込んでいるのは誰だ。

syafu

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ステージから路上へ

ち込んで一人家に帰り着くとき、星空を眺めながら、
好きな女の子にふられたときのように、
鼻水がでるくらい、思いをこめて歌いたい。
友部正人よりはもちろん上手くはないけれども、
その他の歌手よりなら誰よりも上手く、
鼻歌でなら勝負出来るかもしれない。
唄は ステージの上だけにあるのでない。
唄はこの現実の生活のなかで生まれ、
ステージから路上へ
そして
労働者や生活者や民衆の唇へ…。
あるいは
労働者や生活者や民衆の唇の上にあったものが、
逆にステージへと…。
いつも唇に鼻歌を…

syafu

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ストーリー

の透明な意識がピラミッドされたと
思ったのは
同極のリング状の磁石が
秤の上から闇夜の洞穴へ
遁走しただけのこと
序論の公園では
バロック風の時計の構造が
針先にまとわりつく秒を
噴水しておもちゃにして遊んでた
髪を短く切った少女のスカートは
「秒の噴水」の広場で
塔の下から上へ
錆びた自転車のたがを
ころげまわし
鳩の羽毛のある涙に
刺激を加えていた
アーチュリー用の矢に変わった涙は
心臓の鼓動の大きな穴の
小さな的を必死で狙っていた
僕はピラミッドされたと錯覚していた意識の
崩れ落ちるのを観た

syafu

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櫻散る

んの少し上の方からしか
降ってはこない
土とズック靴とのジレンマ
おまえはそれでも
歓喜のなかに魅惑の姿をさらし
雪であると言いたいのか?
春は深い山の奥そこに
ひっこんでしまったというのに
雑草のたましいが
象徴の森を分け入っているというのに
緑色のマッスは増えてゆくばかり
明日はきっと土色にまみれて
その涙はマグマにも及ぶ
麗しきものよ
その流々たる泉の水を
飲みほしてしまえ

syafu

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夕闇・糸車

否された
めぐりの糸車
果てない旅
どこまで続く
赤い!
闇夜の前ぶれ
内在された赤色残して
記憶も消えた
テーブルの上の
コップの中の
知恵の実の汁
誰が呑み込んだ
みんな 呑み込んだ
誰か知るものおらんか
僕のなくしもの知るもの
誰がいる

syafu

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2004.02.09

上手く言い当ててる言葉たち

syafu

までに、何年も不思議に思っていたことや、訳が分からなかったことの答えが、突然やってきて嬉しくなることがある。たとえば土方巽の「暗黒舞踏」。彼の舞踏を直接見たことはないが、彼の弟子だと名乗る人たちの「踊り」は何回か見たことがある。ほとんど全裸に近い身体に真っ白い粉を塗りたくって、凄い形相で踊るアレだ。「踊る」と言えるか言えないか、普通の踊りとは一見して違う。その踊り手と一瞬でも目が遭おうものなら、自分もなにかしらのリアクションを求められているのでないかと錯覚する鋭い眼差しを持っている。そんな目と出会ってしまったことがある。もう1秒でも長くその踊り手に見つめられていたら、きっと自分もその舞台に立っていたに違いない。とにかくその緊張感、迫力はその場にいた者にしか解らないだろう。
 が、しかしその意味するところが解らない。解らないが、なにか人間の中にあるどうしうようもない暗部、普通のありきたりな表現では語り尽くせない肉体の言語があるに違いない、ということだけは何となく解る。

つだったか、やはり土方巽に直接教えてもらったという人に、話を聞いたことがあった。「アレを理解する上手い例えがある」というのだ。こんなことを言っていいのかちょっと心配な部分はあるのだが、「たとえば身障者がたった1杯のコップの水を飲もうとするとき、そのコップに彼の手はまっすぐに伸びていかない。いけない。その手は思いとは裏腹に右に左に震えながら、ある時は上に下に戻ったり、彼の意思を裏切りながらも、最終的には目的のコップを何とか手にし、水を飲むんだ。というようなことを表現しているのだと」それで、僕は何もかもとはいわないが彼らの「踊り」の意味を理解した。素直に自分の意志を伝えるのがいかに難しいか。また、そんな世の中に棲んでいるんだということを身体をとおして語っているのだということを。

近、TVでまた彼の弟子と称する誰かが、土方の舞踏をほんのちょっとさわりだけ紹介していた。詳細は忘れたけど『左の耳から入ったなんとか虫が脳の何とかを通り抜けてなんとかからでるようす』みたいな「踊り」を踊った。それは実に繊細で、奇妙で美しく、微妙な動きで完結した。そして僕はニヤリとなった。ちょっとした誰かの2・3行の言葉や活字がそれを見事に言い当てていることがある。そんなことばに会うと愉快。愉快。
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んとうは、もうひとつ例題を入れて話を膨らませたかったが。しかも「起承転結」になってないような気がするんだが。2作目としてはこんなもんか。
な〜んちゃって。

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2004.02.07

意外に厳しい吾が師匠の文章講座

syafu

供もやってる「起承転結」。
たとえば子供が
「お小遣いもっと増やして」
 と母親に頼むとき。これはもう立派な「起承転結」をやっている。
 学校から飛んで帰って母親にまず言う。

「あのね、お母さん。今日の昼休み、みんなと話していたらねえ……」
 これが「起」である。子供心にもいきなり母親に帰る早々「お小遣い増やして!」ではマズイのを知っている。初めはソロソロと出す。

「Aちゃんが○○○を買ったんだって。僕も欲しかったけど、お小遣いが足りないからあきらめてたら、学校の帰り道、Bちゃんも買ってると言うんだよ」

これも立派な「承」になっている。彼のテーマであるお小遣い増額のために、Aちゃんの例を出してさらにBちゃんまで加えている。

「それで聞いたらね、みんなぼくよりもう少しお小遣いもらってるんだって」

 これが「転」となっている。そして、

「ね。ぼくも増やして!」

 と「結」がくる。
 この程度の構成は誰でもしゃべりながらやっているだろう。難しいといわれる文章の構成も、単純化してみると骨子はこのようなものである。

、こうきた。

 結構この子供、話うまいじゃん。僕よりはるかに上手い。ということは自分の構成力は子供以下だということになる。まいいか。自分はこの程度からはじめるとするか。

 そして、次に何をするかというと。

 そこで、「あのねえ」としゃべりたい話がみつかると、そこらにある紙にとりあえず走り書きをする。これは要点だけメモ程度に簡単に記すだけでいい。この一回目の走り書の文章には、以外にパワーがあって内容の核心をとらえていることが多い。

してメモから実作に移るわけだ。

 一回目の原稿は下書きだと思えばいい。そうやって書いたものがうまくまとまっていればいうことはないが、しかし、ただまとまっていれば良いというものでもない。
 たとえば、先週の日曜日に美術館へ行って、いろいろ名画を観てきて、やはり名画を観ると心が潤う気がした……、などというような話ではしょうがない。

 と、こうやってしまうのが自分の文章なんだな。まずは反省からしなくては。ウンウン。
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外に厳しい吾が師匠の文章講座。

村田喜代子『名文を書かない文章講座』から

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2004.02.06

マイドゥームA

2・3日前から、一度に知らない人からいっきに10通ぐらいメールが来る。その中には、身に覚えはないんだが、自分がだして戻ってくるメールとあなたから送られてくるメ-ルはマイドゥームAというウイルスに感染してます。というのと、女性らしいメルアドで添付書類がついてくるやつの3種類。本文をあけると文字が化けてる。それで添付書類はぜったにあけないで疑わしいのはゴミ箱に全部捨てた。それから、yahooの有料ウイルスチェックのサービスを受けることにした。それから、3日ぐらいたつのだが、まだ怪しいメールはいくつか届いている。こちらの環境はmacなのだが、マイドゥームAっていうのはmacでも感染するもんなんでしょうか? どなたか詳しい人おりましたら、ご教授してください。あとノートン・ウイルスチェックも入れてはあるんですが…。

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2004.02.04

ただただ面白い。

これはただただ面白い。っていうことで、そのまま書いてあることを載せる。他に意味はない。

『現代の国語2』について
村田喜代子

 新学期、子供が学校からもらって帰る国語の教科書が面白いことを、誰が知っているだろうか。
 手元にあるのは三省堂の『現代の国語』中学二年用。こんなものを、とあなどってはいけない。趣味思想に偏った者の目に、この内容の何と広々としていることか。
 詩は草野心平の『いぼ』。ショート・ショートは星新一『友好使節』。また『星からの便り』は、物理学者による星の光の暗号解読史だ。『太平洋を飛ぶ』はパイロットの文章で、飛行機のコックピットの描写が素晴らしい。
 こんな正しく広々とした日本国語の、日の照る野原に向かい合うと、日本文学の片隅の、趣味性ばかり追ってる私など、まさに心洗われる。これでタダとは凄い。時々読もう、国語読本。

 その他、愛読書を紹介する特集で、ねじめ正一も中学校の国語の教科書をあげていたらしい。本の氾濫する時代に教科書に注目している人間が他にもいて愉快だった。とあった。

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文体はその日の気分ってことで

「告白」で思いだしたんだが、TVの番組で高校生か中学生の生徒が、学校の校舎の屋上からいろんなことを「告白」するっていうのがあって。いまでもやってるのだろうか? 特に「何年何組の○○さ〜ん、前からあなたのことが好きでしたー」なんて、目に涙うかべて告白するやつ。あれ見てると胸がキューンとなってこっちまで涙が出てくる。青春っていいよな_。あの頃に帰りたいな_。なんて無性に懐かしくなる。それでおぢさんも、こう思うのだ。たとえば、おぢさんも社長にドキドキしながら「給料あげてくれ_」みたいなことを告白したい。する勇気をいつも持っていたい。それはもちろん「給料あげてくれ_」だけでなく、これは言ったほうがいいだろうと思うことできるだけだ。それは戦いだ。いつも潔くピュアでいたい。「告白」にはそんな思いが込められている。

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やっぱり難しいじゃないか

そんなこんなで告白もしたことだし、自分ではもうすでに文章を書く練習をしてるつもりなんだが、こんな風にして自分でそれを克服しようと思う。「文章書くのは難しくない」という内容で、芥川賞作家の村田喜代子さんが書かれた、『名文を書かない文章講座』を図書館から借りてきて読んでるところ。なのだが、やっぱり難しいじゃないか。

のっけの「基本編」は
文章は口から
というので始まる。

「あらたまって紙に書くものだけが文章ではない。口の中で転がしても文章だ。何か書こうと思う人は、目に入るもの、頭に浮かぶものを、なんでも舌にのせて文章化する習慣を身につけるといい。文章とは何なのだろう。やはり、言葉なのだ。口でしゃべれて、文章が書けないということはないのである」

とこうきた。
ところがこちらは日常会話も話すのが苦手。いまの職業もそんなこんなで選んだふしがあるくらいなのだ。では、自分にとって話したり、文章を書くことは無理なのか? そこで又、最近読んだ『こころのつぶやきがあなたを変える』という本の中に自動思考を修正しようというのがあって、その認知療法的思考で考えると、「できるところからやってみよう」というふうに考えてみる。確かにそう思うと少しはできそうな気がする。なのでとりあえずは、村田喜代子さんを自分の師匠にして、この本をテキストにして、できるところから実践的に練習していきたいと思う。なのでこれからは(今までもだいぶ変だが)変な文章ばかりがでてくると思われるので、その辺は、あまりつっこまれると困る。

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わ、私は文章幼稚園児だ!

は_っ。は_っ。は_っ。
やっと言えた。
こういうのを「カミングアウト」っていうんだろうか?

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2004.02.02

パリ、テキサス

15年ほど昔かな_。大塚にも「大塚名画座」っていうのがあった。南口の都電のロータリーを過ぎた商店街の中にあった。焼き肉屋になってしまって今はもうない。当時、その近所で働いていて、仕事で面白くないことがあると、まっすぐ家には帰らないでたまに寄って見たものだ。記憶が定かではないけれど、1階と2階があって、邦画も洋画もやっていた。しかも何年も前にやってた映画で、見過ごした名作などがたまにやってたりした。特に印象に残ってる映画は「風の歌を聴け」と「真夜中のカウボーイ」と「パリ、テキサス」だった。

パリ、テキサス」ことを書こうとずっと思っていた。ナスターシャ・キンスキーのことやライ・クーダの音楽のこと。でも文章が下手で書けない。そこでHPで検索してみた。もういやんなっちゃう。この人文章上手すぎ、これ以上付け加えることなにも無しって感じ。世の中こんなに文章上手い人がいるんだな_。ショック。こんな文章書けたら死んでもいいや。まあいいか、こっちは小学生並みの文章書いてやる。な〜んちゃって。

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